国語と民俗学

一 国語と民俗学

 

私の題は非常に面白さうな題目ですが、私にはまだこの話を完全に申上げる事が出来ません。どうぞ、そのお積りで鷹揚に聞いて戴きたいと思ひます。守随さん、大間知さんそれに私、この三人で、柳田先生の代役を勤めてゐるもの、かう見て戴きたいと思ふのであります。併し、力は三人かゝつて行つても柳田先生に叶はぬ。さう申して私はかまひませんけれど、大間知さん、守随さんに済みませんから、三人で叶ふものとかう見て戴きます。
昨日以来、大体に於いて、只今の民俗学の概念はお汲み取り下さつたものと存じます。それで、もと/\民俗学と言ふ事に就いて話して居りましたら、大変な時間のかゝる事ですから、それは飛越して、先へ話を進めて行く積りでをります。私共の一部の間では、若し許して戴くことが出来れば、民俗と言ふ言葉を註釈する為に「前代の知識」と言ふ言葉を使つても良いと考へてをります。果して、前代の知識と言ふのが完全に当て嵌るかどうか訣《ワカ》りません。民俗でなくても、前代から伝つてをる知識と言ふものは沢山あるんですから、完全でないと言ふ事は大体感じる事が出来ますけれども、さう言つてしまへば、何だつてそれ程完全なものはないんですから、先づ、前代の知識と言ふ位の事を以て、民俗と言ふ言葉の説明に代へて、話をして行きたいと思ひます。
民俗学の為事《シゴト》としては独立の民俗学、民俗学それ自身独立してやつて行つてゐる方面、それからまう一つ補助学科としての民俗学がある。つまり、学問の方法としての民俗学で、この二つの方面がございます。この第二の方の、方法として用ゐられる民俗学と言ふものゝ方が、比較的世間に取入れられ易い為に、どうかすると、民俗学と言ふものは補助学科だと言ふ風に見られ勝ちです。我々同人達が共同で進んで行つて、民俗学の独立性を確実にしようと只今致してをります。これはたゞに日本だけの為事ではない。さうすれば大変大きな為事になつて来る。かう言ふ考への下にやつてゐる訣《ワケ》です。
私最近東京の方で講演がありまして、「国文学と民俗学」と言ふ話を申しました。その関係からこちらの方でも「国語と民俗学」と言ふ話をする事になつた訣です。つまり、この題から申しますと言ふと、「国語の補助学科としての民俗学」と言ふ事に、話の見当が定つて来ると存じます。だが只今申上げた様に私共の為事と言ふものは、まう少し先に行きたい。つまり、独立の民俗学と言ふものをはつきりさせよう、と言ふ事を始終考へてゐるのですから、今日のお話は、民俗学を補助学科としての意味で御聞き下さつては、不都合な事が大分出て来るかも知れません。
それに致しましても一番最初に、この国語と民俗学との接触面の、一番緊密な処は何処かと申しますと、国語学のうちでの最も古い態度、つまり、訓詁解釈、世間の一部の学者から憐まれて居る態度の、訓詁解釈であります。訓詁解釈と言ふものは、明治以前には非常に盛んであつた。それを受継いで、明治以後の国語、国文学者が一所懸命やり過ぎました結果、新しい国文学者から排斥せられてゐました。けれども、その為に又、新しい国文学者にはものが一向読めないのです。そして読めないで大ざつぱな解釈をするとか、或は材料の穿鑿をするとか、かう言ふ様な事ばかりに向いて来まして、或はさうでなければまう少し意味のある計画をして、文学史を研究すると言ふやうな事になる訣です。それで本文が読める読めないと言ふ事が、一番その死命を制するんだと言ふ事も忘れてをります。が、最近には又訓詁解釈と言ふ事が頭を擡げて参りました。その運動がはつきりして来たのは昨年からだ、かう言つて良いと思ひます。どうも学問の態度と言ふものははつきりするものではないですけれども、兎に角世間に名告りを挙げて来たのは、大体昨年頃からです。これは当然、さうなければならない事だと存じます。それで私の話も先づ訓詁解釈と言はれてゐる方面から這入つて行つたらよからうと、かう存じます。
本当の事を申しますと、補助学科と致しまして、民俗学の方から国語学或は国語の研究に持出しをするのですけれども、私の場合はさうではないやうに思ひます。国語の方から民俗学の方に歩み寄つてゐることもあるし、民俗学の方から国語の方に歩み寄つてゐる風なところもあつて、両方から行つてゐる、さう言ふ風です。
どうも我々は、何時も、申したり書いたりすることが、古代に偏し過ぎてゐます。これは自分等の知識の偏りなんです。知識が古代に偏つてをりますから、古代の事だつたら解釈がつき易い。古代の事だつたら、直ぐに豊富に――豊富にと言つては恥しいですけれど、まあ貧弱乍ら豊富に出て来る。又近代の事でもやはり幾らか潤沢にあるんですが、中世の事だと、もうほんの岩間の滴りのやうにしか、浸み出て来ません。一つの研究に対して、どつと押寄せて来る、殺到して来るやうな知識がなければ、本当の研究だとは言ひ得ないですね。かう言ふ材料を集めてみよう、と言ふやうな、まるで、大学を卒業しようとする者が、卒業論文を書いてゐるやうな態度では――今の大学の卒業生達はそんな者ばかりではありませんけれども――生きた研究者の本当の態度ではないのです。一つの研究に対して、色々な材料が集つて来ると言ふのでないと、生きた研究には、本当はならないのだと存じます。これがつまり、過去の文献学者と今日の同じ傾向に居る学者、国語・国文学者との、本当の違ひだと思ひます。
さう言ふ傾向の学者の研究と言ふものは、総べて随筆風に、知識の網羅になつてをります。譬へばらぢお[#「らぢお」に傍線]の話なんか時折聞いて居りますと、――余り適切に例を出す事は人の悪口を言ふ事になりますから、それは避けて、少し変へて申します。――八百屋お七なら八百屋お七の事を綴つた戯曲を論じて見ると言ふと、それに類似した事を、昔からずつと近代迄集めて来て、それに組織をつけて見ます。つけて見る事は見るのですが、自分の組織ですから、それに這入り切れないものがあります。その他に、八百屋お七の狂言に依つてかうであつた、かうでもあつたと、譬へば八百屋お七を瀬川菊之丞がやつた時に、かう言ふ模様の振袖で行つた、それ以後、その着た振袖模様が伝つてゐて、芝居の上でも、それで何時迄も用ゐられてゐる、と言ふやうな事を言ひますが、そんな事を言つて見たつて、それは何にもならない。唯、こんな零細な知識迄も、無視しては研究して居ない、と言ふ事を示してゐるに過ぎない。或は羽衣の、三保の浦の翁と天人との話を研究してゐると、天人の話を幾らでも並べ立てゝ来る。国内にも潤沢にあります。西洋にも白鳥処女伝説と言つて、天人の話は沢山あります。有り余つてをりますが、その他に、色々断片的な知識を添へる事を忘れない。そして琉球の銘苅子まで添へて来る。さう言ふ風な研究法は、本当でないと迄は言へないかも知れないが、さう言ふ態度も昔は一般に認められてをつたのです。けれども、今日ではそれはもう、認められないことでなければならない。つまり、一つの無駄もなしに、一つの論文は生きた有機的な有機体となつて、働かなければならない筈です。話を聞いてゐても、さう言ふ附添へ物は不自然な死んだものが挟まれてゐるやうな気が致します。ですが、我々の知識の程度ではどうしても偏ります。古代の知識の割合に豊なものは、古代に依つて解釈しようとします。近代に豊富な者は近代に依つて解釈しようとします。中世を知つてゐる者は中世に依つて解釈しようとするのであります。併し、それは円満にしたいものです。まあその研究態度に依つて、この研究がいゝか悪いかと言ふ事を判断して貰うて、材料の問題は、その人には殆ど個性となつてゐる、学問の習慣に依つて材料が手に這入るんだから、それは態度のよし悪しではない、と言ふ風に考へて戴かなければなりません。
その場合に、大変都合のいゝ事は、時代として定つた書物の上の国語の外に、時代の一切訣らない――と言ふと語弊があるかも知れませんが――まあ訣らないものが非常に多い。それは、所謂国語として扱はれてはをりませんが、国語であるには違ひない方言と言ふものであります。方言と言ふものは、記録せられた言語の何層倍もあつて、それが生れたり死んだり、又形が変つたりして、生滅してをります。だから方言と言ふものは年代が訣らない。古いとも言へない。或は中世のものとも定められない。同時に古代のものでもあり、中世のものでもある事が出来るのです。だから、方言と言ふものゝ学問に対する本当の価値と言ふものは、未だ未知数なのです。我々の様に補助学科として、方言をば国語学の上に利用する価値と言ふものは、未知数です。未知数だけれども、兎に角思ひ切つてしまふ事が出来ない。事実方言を使つて居ると、続々成績が挙つて来る。さう言ふものがあるから、我々は方言を其処へ利用してくれば、更に材料が殖えて来る訣です。
御承知の通り国学の先輩達も、方言と言ふものゝうちに、古語が遺つてゐると言ふ事に注意をし出しまして、それで、言葉を発見する事を喜んでをります。併し、さう言ふ態度、譬へば、本居宣長や鈴木重胤等の態度を見ますと言ふと、方言を非常に憐なものと見てゐる。自分等の使つてゐるものは、非常に憐なものと見てをつて、それが昔の、貴族みたいな古い言葉と合つてゐたり、古い言葉を証明するに足りるとは、望外の光栄だ、非常に有難い事だと言ふ風に、感謝するやうな気持で、方言を見てゐる。だから、我々が方言を見る態度とは違つてゐる。つまり、未だ学問的の価値が本当には定つてをらず、これから我々の使ひ方で、愈々価値を増して来る筈のものである、それが近代語であると共に古語でもあり得る、と言ふのが方言です。さう言ふものをば、国語の研究に流用するやうにして行くと言ふんですから、大分態度が違つて来て居る訣です。

 

     二 言語伝承

 

けれども第一に考へなければならぬ事は、我々の言葉と言ふものは、結局お蕎麦を拵へる時のつなぎ[#「つなぎ」に傍線]みたいなものでせう。我々の思想と言ふものをば保管する為の、一つの機関に過ぎない。だから同時にその言語と言ふ機関がなければ、我々の思想と言ふものはつなぎ[#「つなぎ」に傍線]を失つた蕎麦粉と同じ事で、何処へ飛んで行つてしまふか訣らない。我々には、何も考へる事が出来ない。我々の言葉と言ふものは、後へ/\思想を伝へて行くと言ふ事の他に、現在我々が、物を集中して考へると言ふ目的の方が、もつと高い位置にあるんです。これ等は何も概念を、抽象的な観念をば扱ふところの、哲学者の言草ではありません。実際我々は言葉なくては物を考へられない。他の状態なら、中毒と同じ事です。私でもさうですが、書いて見なければ考へられないと言ふ人があるでせう。譬へば、表を書いて見なければ訣らないと言ふ人がある。又さう言ふ人が多くなつて来る世の中です。人の考へ方と言ふものは、だん/\と変つて来る。併し、言葉なくして、それ以前に何を考へてをつたかと言ふ事は、我々は考へる事も出来ません。そんな事があつたかも知れませんけれども、我々には空想する事も出来ません。
それだから、昔の人々も、言葉と言ふものに精霊がある、言葉に霊魂があると、かう考へた筈だと思ひます。つまり、日本の言葉で申しますと「言霊」と申します。言葉に精霊があり、それが不思議な作用をすることを、さきはふ[#「さきはふ」に傍線]或はさちはふ[#「さちはふ」に傍線]と申してをります。所謂「言霊の幸《サキハ》ふ国」とは、言語の精霊が不思議な作用を表す、と言ふ事です。つまり、言葉の持つて居る意義通りの結果が、そこへ現れて来ると言ふ事が、言霊の幸ふと言ふ事です。つまり、さう言ふ事を考へて来るのは、やはり根本に、言葉の物を考へさせる力を考へ、更にそれからまう一歩、その言語の精霊の働きと言ふものを、考へて来たのです。つまり、我々の周囲《マハリ》にある物が、皆魂を持つてゐるやうに、我々の手に掴む事が出来ない、目に見る事も出来ないけれど、而も自己の口を働かしてゐる言葉に、精霊が潜んでゐるのだ、と言ふ風に考へた訣です。この、言霊の幸ふと言ふやうな事を言ひ出した時代は、日本の国でもさう古い時代とは思はれません。それに似た信仰は、古くからあつたに違ひないのですけれども、言霊の幸ふと言ふ言葉は、言葉の形から見れば新しい形です。少くとも、万葉集などゝ言ふ書物に書かれてゐる歌が、世間で歌はれて居た時代です。だから少くとも、奈良朝を溯る事そんなに古い時代に、起つた言葉だとは思はれません。けれども、それと同時に、言霊が不思議な働きをすると言ふ信仰は、それではそれ以前はなかつたかと言ふと、全然なかつたとは言ひ切る事は出来ません。けれども、我々が言霊の幸ふと言ふ言葉に依つて、考へる通りの信仰と言ふものはなかつたのです。言霊の幸ふと言ふ言葉に依つて、限界をつけ得る一つの信仰と言ふものは、奈良朝前、それ程遠くない時代に固定し、構成せられて、それがだん/\持伝へられて来たのです。而もそれが、だん/\意味が変化して行きます。ある時代の学者になりますと、言霊のさきはふ国と言ふ言葉を、日本の国は霊妙不可思議な言葉が行はれて居る国である、と解釈し、その言葉を讃美した言葉、日本の国の言葉がすぐれてゐて美しい事を賞める言葉だ、と言ふ風に解釈してをります。だから、かう言ふ日本には盛んに歌謡が起つたとか、こんなに立派な短歌と言ふやうな又長歌と言ふやうなものが出来た、と言ふ風に考へられてゐるのですけれども、この考へは、さう言ふ考へに至るまでに、自然と、変化を辿つてゐるのかも知れません。併し、我々の見るところでは、さうした学者の誤解が、ずつと後になつて、起つて来たのだと思ひます。
言霊の幸ふと言つたのと殆ど、同じ時代に、色々の言葉が出てをります。まあ、万葉集を中心として、まう少し古いものは、古事記・日本紀などゝ言ふ書物に、遺つてをります。併し、殆ど、同じ時代に出来た書物ですけれども、何と言つても、万葉集に記録してゐる言葉と、それから、その言葉の組合せとに依つて、含まれてゐる考へ方と言ふものを見ますと言ふと、万葉集のものは、古事記・日本紀のものよりも新しいんです。総べて、古事記・日本紀・万葉集などゝ言ふものに、書いてある事の時代の定め方、つまり、この御歌は雄略天皇がお作りになつたとか、この御歌は神武天皇がお作りになつたとか、この御歌は大国主命がお作りになつたとか、言ふやうなことは、総べて解き離して、自由にして考へるのが、本当なのです。つまり、言葉として扱ふ上に、自由にして考へなければ、到底何も訣りはしないのですけれども、大体先づ、其の位の目安で行つて良いと思ひます。
言霊の幸ふと言ふ言葉は、万葉集を中心とした言葉ですが、やはり、同じ時代に出来た言葉か、或はまう少し古いかも知れませんが、「天つ罪」「国つ罪」と言ふ言葉がございます。この天つ罪と言ふ言葉、国つ罪と言ふ言葉は、日本の古い神道では一番大切な言葉で、一番大事な言葉と言ふのはどの言葉か、と言はれると、必ず、昔の人は、天つ罪と言ふ言葉を挙げたと思ひます。近頃、筧と言ふ人が出て来て、「かむながらの道」と言ふ事を唱へまして、惟神《カムナガラ》と言ふ言葉が、非常に重大性重要性をおびて来ましたけれども、もつと天つ罪・国つ罪と言ふ言葉の方が、もとは皆よく知つてゐたでせう。中臣祓――大祓とも言ひますが――のうちに這入つてゐる、有力な件りでありますから。言葉の形から見ますと、天の罪・地上の罪と言ふ事になるんですけれども、私が若い時分に、柳田先生の所に通ひ始めた――通ひ始めるは可笑しいですね。通学ではないんですから(笑声)――その時分に、先生から問題として出されまして、「天つ罪と言ふものを君はどう思ふか」と言うてをられた事を覚えてをります。国つ罪と言ふ事が、地上の罪と言ふ言葉でございますならば、天つ罪と言ふ事は、天上の神の罪と言ふ事にならなければならない訣ですけれども、さう言ふ与へられた問題が、何時迄も釈《ト》けないで、憂鬱に頭にたまつてゐるんですね。人間はやはり、さう言ふ憂鬱さ、それが釈けないと言ふ憂鬱さがあつて、それが突然何かの機会に突当つて、湧然と飜然と訣つて来るのでせう。つまり、感情的な一つの解決、「悟り」ですね。多くまあその悟りに、科学的な衣を着せて、これは悟つたのではなしに、かう言ふ偉大な組織を持つた科学から、完全に出て来たのだ、と言ふやうな顔をする事になつてゐるのですけれども、根本はやはり、悟りでせうね。天つ罪と言ふ言葉を、先生に与へられたことが、ひんと[#「ひんと」に傍線]になつてゐると思ひますが、どうもその後、その事は忘れてしまつてをつたやうに思ひます。
万葉集に現れて来る天つ罪と言ふのは、祝詞などに出て来る天つ罪とは違ふのです。万葉集に「雨障常為公者《アマツヽミツネスルキミハ》 久堅乃《ヒサカタノ》 昨夜雨爾将懲鴨《キノフノアメニコリニケムカモ》」(巻四)と言ふ歌がありますが、この場合、あま[#「あま」に傍線]と言ふ言葉は降る雨なのです。つゝみ[#「つゝみ」に傍線]と言ふ事は、雨に対しての慎み、雨の物忌みですね。雨の降る時分の、或は雨に対する物忌み、と言ふ事を意味するらしいのです。雨が十日間も降つたら、十日間も私のところに通うて来ない積りですか、と言ふやうな場合ですね。女が、何故来なかつたかと言ふと、雨が降つたからだと言ふ風に言ひ抜けをする。それぢや雨が十日も二十日も降つたら来ない積りなんですか、と女が捻ぢ込んだ。さう言ふ意味に、あまつゝみ[#「あまつゝみ」に傍線]と言ふ言葉が使はれてをります。万葉に一つ、一つではありません、二つあつたと思ひます。
ところで併し、この「雨の慎み」と言ふあまつゝみ[#「あまつゝみ」に傍線]と言ふ言葉が、天上の罪と言ふ事を意味するあまつゝみ[#「あまつゝみ」に傍線]と言ふ言葉とは、別々の言葉か、別々の言葉でないか、それは訣らないのです。世の中には同じ形を備へてをりながら、全然別々な意味の言葉がございますね。併し、違ふ事を同じ様に言つた場合、人は聯想しますから、全然別な言葉を一つにしてをります。
いとほし[#「いとほし」に傍線]と言ふ言葉は、平安朝で有力になつたが、どうも、もとは「嫌だ」と言ふ事らしい。「厭ふ」と言ふ言葉を語根にしてをりまして、それを形容詞に活用させて、いとほし[#「いとほし」に傍線]と言ふんだが、どうも、嫌だと言ふ事に使つたのが第一義らしい。ところが、平安朝の物語になると、このいとほし[#「いとほし」に傍線]と言ふ言葉は、後の室町時代になつて盛んに出て来るいとし[#「いとし」に傍線]と言ふ言葉、我々の使つてゐるおいとしい[#「おいとしい」に傍線]と言ふ言葉、と同じ意味に、多く使つてゐる。つまり、いとほし[#「いとほし」に傍線]と言ふ形が、いたはし[#「いたはし」に傍線]と言ふ形から影響を受けて、そつちの方に引張られて行つた、つまり、いたむ[#「いたむ」に傍線]を語根にした言葉に惹かれて行つたのです。それで、同じ時代の言葉でも、いたはし[#「いたはし」に傍線]といとほし[#「いとほし」に傍線]と、同義語が並んでゐる訣です。この様に、いたはし[#「いたはし」に傍線]と言ふ様な意味に引張られて、いとし[#「いとし」に傍線]と言ふ意味に使はれる一方には、いとはし[#「いとはし」に傍線]と言ふ言葉と同じ様に嫌だと言ふ時にも使つてをるのです。けれどもしまひには、だん/\時代が進むと言ふと、いとはしい、嫌だと言ふ意味はなくなつてしまつて、第二義の方にずつと這入つて行つてしまふ。併し、平安朝で見ますと、第一義が嫌だと言ふ意味なのか、第二義か第三義か知りませんが、兎に角、引きずられてゐる言葉、外の方にかぶれて、引きずられて行つた言葉が、いとしい[#「いとしい」に傍線]と言ふやうな意味ですから、さうすると同じ言葉であるけれども、さう言ふ風に意味が変つて行くんです。ですから、どうもその間に調和を求めまして、嫌だと言ふ意味と、いとしい[#「いとしい」に傍線]と言ふ意味との中間を歩くやうなものが、物語や日記等に沢山出てゐる。それを我々が今日見ますと言ふと、いとしいとも釈けるし、嫌だ、嫌ひだとも釈けるのですけれども、昔の人はその間の考へ方と言ふものを、見つけてゐたんです。つまり、さう言ふ言葉が使はれてゐる時代が過ぎ去つて、忘れられてしまふと言ふと、もう、さう言ふことは考へられぬのと同じ事です。我々が書物を持たなくても、幸にその言葉の出来た時分に我々が生きてをつたら、さう言つた言葉ははつきりしてをりますね。
このうちでも、私共とそんなに年齢の変らないお方は御記憶でせう、譬へば、はいから[#「はいから」に傍線]と言ふ言葉です。今ははいから[#「はいから」に傍線]と言ふ言葉は賞める言葉ですね。今では、もだあん[#「もだあん」に傍線]・すまあと[#「すまあと」に傍線]・しいく[#「しいく」に傍線]などゝ言ふ言葉であらはしてゐて、はいから[#「はいから」に傍線]と言ふ言葉は、使はなくなつたかも知れませんが、又私共もさう使つてはゐませんが、すまあと[#「すまあと」に傍線]とかもだあん[#「もだあん」に傍線]とか言ふ言葉は、我々の生活内容には余り這入つて来ない。それだけ貧弱な生活をしてゐるんだけれども、又それだけ安易な生活もしてゐる訣ですね。それで、はいから[#「はいから」に傍線]と言ふ言葉は御存じの通り、只今でも生きてをられる竹越三叉さんや、先年亡くなられた望月小太郎さん、あの人々が洋行帰りで、高いからあ[#「からあ」に傍線]をつけて、きいろい声で演説をしたのを新聞記者が悪《にく》んだ。きざな奴だと、日本新聞ではいから[#「はいから」に傍線]と言ふ言葉を言ひ出して――日本新聞で言ひ出したのでなく、宛て字を日本新聞でしだしたのかも知れません――兎に角新聞記者が、からあ[#「からあ」に傍線]の高い奴と言ふのではいから[#「はいから」に傍線]と言ふ名前をつけた。そして、鼻持ちのならないと言ふ意味の言葉として、日本新聞で「灰の殻」と宛て字をした。侮蔑しきつた宛て字ですね。今は一つも使ひませんが、その頃使はれてゐたはいから[#「はいから」に傍線]と言ふ言葉は、襟が高いと言ふ意味のはい・からあ[#「はい・からあ」に傍線]を、「灰殻」と宛て字を書いてもいゝやうな、さう言ふ内容をもつて来てをつたのでせう。それで「灰の殻」として、しきりに使はれてをりましたが、その灰殻と言ふ記号をば飛越えて飛躍し、はいから[#「はいから」に傍線]と言ふ言葉が、非常に使はれ行はれて来ました。さうしてそのはいから[#「はいから」に傍線]と言ふ言葉も、だん/\良い内容を持つて来て、つまり、鼻持ちのならぬきざな奴、むしづの走る奴などゝ言ふ意味が、遂にはだん/\なくなつて来たのでせう。そして、我々が昔からもつてゐた考へ方を、又復活させて来たのです。
戦国の終りから江戸の始めにかけて申したあのかぶき[#「かぶき」に傍線]と言ふ言葉、それから六法《ロツパウ》、かんかつ[#「かんかつ」に傍線]などゝ、色々な言葉がありますね。その時代々々に依つて、少しづゝ意味は変つて来るけれども、兎に角、近代的で、乱暴で、而もえろちっく[#「えろちっく」に傍線]で、刺戟の強いものを表す言葉になつたのでせう。併し、時々さう言ふ考へだけが、型を落してしまつて浮動してゐる事があるんですね。それが、或言葉が出て来ると言ふと、その中に這入つて来るんでせう。さう言ふとなんか、非常に抽象的な話し方になつて、具合が悪いですが、兎に角、さうしてはいから[#「はいから」に傍線]と言ふ言葉を使つてゐるうちに、昔の考へ方が復活して来る訣です。つまり、昔のかぶき[#「かぶき」に傍線]と言ふ言葉と、非常に似た内容を持つて来たんですね。さう言ふ風に、言葉と言ふものはだん/\変遷して、このいとほし[#「いとほし」に傍線]と言ふ言葉と、いたはし[#「いたはし」に傍線]と言ふ言葉とが歩み寄ると、その中間の意味と言ふものが出来て来る。それが今日の我々になると、どう訳して良いか訳すべき言葉がない。ごく、無感興に、訓詁解釈を行ふ人は、いとほし[#「いとほし」に傍線]と言ふ言葉は、大抵、いとしい[#「いとしい」に傍線]と言ふ意味に訳して、どうも為様《シヤウ》のない時にはいとはし[#「いとはし」に傍線]と言ふやうな、嫌だ、嫌ひだと言ふやうに訳す。それよりほか方法がなくなつてしまつてゐる。
さう言ふ風に、あまつゝみ[#「あまつゝみ」に傍線]と言ふ言葉もやはり同じ言葉か、違つた言葉か訣らない。訣らないけれども、どうもだん/\考へて見ると言ふと、違つた言葉でもなささうです。つまり、五月の霖雨期には、日本の農村では非常に物忌みが厳粛でして、その時には、男女は結婚しないばかりか、夫婦も一緒に寝ない、さう言ふ風になつてをります。これは今でもあるところがあるんでせう。一寸はつきり申すことは出来ませんが、兎に角、それは事実なのです。さうすると、あまつゝみ[#「あまつゝみ」に傍線]と言ふ事が、単なる雨の慎みだと言ふ風に万葉集で訳してをるのは悪い。万葉集の注意深い註釈者は、さう言ふ風に訳しては足りないと言ふ事が訣ります。つまり、あまつゝみ[#「あまつゝみ」に傍線]と言ふのは霖雨期の時分の慎み、物忌みで、だから、どの女でも男でも、逢ふ事が出来なかつた。すると、「雨障常為公者《アマツヽミツネスルキミハ》」と言ふ事がよく訣つて来ます。ところが、さう言ふ民俗に行き当る以前に、我々が考へてをつた事は、それだけの根拠はないけれども、農村のこの霖雨期と言ふものは非常に重大な時であつて、その時には、農村に神様が来てゐる。それから同時に神様の降《クダ》つて来る時、即ち、或は、刈上げ祭りの時、或は田の代掻きをする時分、或は春の始めに、代掻きの舞ひを舞つたり、植付けの舞ひを舞つたり、刈上げの舞ひを舞つたりする、「春田打ち」など、皆神様が来てゐるものとして、慎んでをつた。だから、このあまつゝみ[#「あまつゝみ」に傍線]と言ふのも、霖雨期の物忌みだらうが、それが同時に、「天上の罪」だと言はれてゐるところの、「天つ罪」の内容の説明になつて来る。古事記、日本紀の「天つ罪」として勘定してゐるものを見ますと、総べて、田に関係がある。田に関係のないものはないのです。田の植付けから刈上げ祭りまでの間に、慎みをせなければならぬ事を犯した、物忌みすべきをせなかつたことに対する個条をば、「天つ罪」として勘定してゐるのです。さうすると、我々の考へ方を申しますと、「天つ罪」と言ふのは、昔の人が天の罪と考へてゐたゞけで、却つて、万葉集にあるところのあまつゝみ[#「あまつゝみ」に傍線]と言ふ言葉の意義である、雨の物忌み、まう少し言ひかへれば、霖雨期の謹慎生活、禁慾生活と言ふ方が古いのです。即ち「霖忌《アマツヽミ》」です。
それが、だん/\天の罪と言ふ風になつて来た。それは、罪と言ふ言葉と、慎みと言ふ言葉と、つゝみ[#「つゝみ」に傍線]と言ふ言葉とは同じである、とかう言はれてをりますが、更に日本語のつ[#「つ」に傍線]には、所有格を表す一つの使ひ方がありますから、そのあま[#「あま」に傍線]をば天と言ふ風に考へれば――日本語では天も海も雨(霖)もあま[#「あま」に傍線]です――つ[#「つ」に傍線]が直にぽせしぶ・けーす[#「ぽせしぶ・けーす」に傍線]になつて、霖忌は「天の罪」となります。だから、天つ罪と言ふ事を、こと/″\しく言うてをりますけれども、国つ罪は割合にやかましくなく、厳密に個条を数へてもゐないのです。古いものでは、国つ罪の事を、別に、やかましい意味だと怖れてはゐません。ですから、天つ罪と言ふ言葉をば考へ出して後に、国つ罪と言ふ言葉を拵へた、拵へずとも自然に出来て来る訣です。
かう言ふ風に考へて行きますと、つまり、神道の重要な天つ罪国つ罪、と言ふ言葉が、我々の生活内容としても不適当でない程に、かう言ふ親しさを持つて来ます。素戔嗚尊が天の上でなさつた悪戯だけをば、天つ罪と言つてゐるが、その天つ罪が何で地上の我々に関係があるかと言ふことは、昔の人は説明してゐない。つまり、我々から説明すると、素戔嗚尊が天上で悪い事をなさつた為に、地上の民の我々が、共同にこれだけの禍ひを受け、それでその為の贖罪、あがなひ[#「あがなひ」に傍線]をする、とかう言ふ風に思つてゐたのです。さう言ふ風に、昔の人は考へてゐたらしい。併し、その昔の人の考への、まう一つ先を考へて見ると言ふと、何故地上の民である我々が、贖罪しなければならないかと言ひますと、つまり、もとは霖忌であつたのを、一度天に上げて、それを地上へ降して来ると言ふ事になつて来た。難しくなつて来た訣です。
私はもう十年以上も前に、壱岐の島へ二度も行きました。そこでくさふるふ[#「くさふるふ」に傍線]と言ふ言葉を聞き、その時分、珍しい言葉だと思つてをりました。けれども、これは西日本では分布の広い言葉です。兎も角、壱岐の島で瘧《オコリ》――まらりや[#「まらりや」に傍線]です――に罹ることを、くさふるふ[#「くさふるふ」に傍線]と申してをりました。けれども、その時直に思ひ浮んだのは、くさふるふ[#「くさふるふ」に傍線]とくさつゝみ[#「くさつゝみ」に傍線]との関係です。関係がありさうに思ふだけで説明は出来ない。そこへ無闇に、聯想の赴く儘に任して材料を集めてをれば、牽強附会になるので、訣らない限りは放つて置くより為方《シカタ》がないですから、放つて置いたのですけれども、どうも関係がありさうです。このくさつゝみ[#「くさつゝみ」に傍線]と言ふ言葉は、くさつゝみ[#「くさつゝみ」に傍線]・やまひ[#「やまひ」に傍線]とかゝつて行く言葉で、枕詞ですが、何故、くさつゝみ[#「くさつゝみ」に傍線]がやまひ[#「やまひ」に傍線]の枕詞なのかは訣りません。近年、柳田先生は、方言研究に非常に情熱を持たれまして、方言研究の流行と言ふものを起されました。流行の頂上へ登り詰めて、この頃本格的の研究時期に這入つてる訣でせう。――併し、それと同時に先生は研究をやめて、他の研究の方へ移つてしまはれるのですけれども、眷族共は残つて研究してゐる訣です(笑声)。どうも、柳田先生なんて言ふ方の後の者は災難です。けれども、世間ではさうではない。或は方言研究の流行は今が頂上の時代です。それから先生は昔話の研究の方に行かれたのです。昔話の研究でも、きつと研究の奨励をして他に行かれるに違ひない。さう言ふやうに動いて行かれた後は、非常に学問的の意味がありますから、見てゐるのですけれども――先生はくさふるふ[#「くさふるふ」に傍線]と言ふ言葉はくたぶれる[#「くたぶれる」に傍線]と言ふ言葉と同じ意味だと言つてをられます。どうもさうかも知れません。違ふと言ひかねる程、何か内容があるやうな説です。くたぶれる[#「くたぶれる」に傍線]、くたびれる[#「くたびれる」に傍線]と言ふ言葉は、くさふるふ[#「くさふるふ」に傍線]と言ふ言葉とは関係が深さうです。壱岐の島では瘧と言ふのは、ふるふ[#「ふるふ」に傍線]と言ふ事に主に言はれてゐるのだと思ひます。それに、先生の説明してゐられるのによりますと、くさ[#「くさ」に傍線]と言ふ言葉は、病気を意味する。大体そんな言葉で、外からついて来る病気です。外からついて来ない病気はさうないでせうけれども、外から忽然とくつ着いて来る病気をくさ[#「くさ」に傍線]と言ふ。つまり、かさ[#「かさ」に傍線]をくさ[#「くさ」に傍線]とかう言ふのだ、とさう言ふ風に言つてをられますけれども、さうはつきり定めてしまへるかどうか、今はまだ問題です。併し、兎に角、くさつゝみ[#「くさつゝみ」に傍線]と言ふ言葉のつゝみ[#「つゝみ」に傍線]と、「天つ罪」のつゝみ[#「つゝみ」に傍線]とだん/\似て来ます。似た姿を曝け出して来るやうに思ひます。くさ[#「くさ」に傍線]に対する物忌み、だから病ひと言ふことになるんでせう。くさ[#「くさ」に傍線]と言ふ言葉の意味がまだ定らないものですから、まだ考へなければなりませんけれども、こんなのはやはり、方言から行くより為様がありません。なにしろ書き物が残つてゐないのですから、価値のまだ定つてゐない方言から、それを証明して来るのが本当だと存じます。
それを、言葉と言つていゝかどうか訣らぬけれども、平安朝の終りに来て――平安朝の前から言つてゐるかも知れません――我々の書き物には平安朝から現れてゐる事なんですが。――どうも平安朝と言ふ時代は語彙が非常に少くて、而も語彙は少いけれども書き物の非常に多い時代です。換言すれば、書き物に現れる語彙が少い、つまり、少い語彙を以つて沢山のことを書いてゐる時代です。書いてゐる人々は、宮廷に、或は貴族に仕へてゐる女か、さうでなければ、その女等の文章の真似をした人なんですから、大体宮廷、貴族に仕へてゐる、即ち、女房と言ふ階級の人達だつたのです。それで、その女房の貧弱な語彙に、出来るだけの能力を発揮さして来たのです。ちやうど、今の若い小説家と同じことです。貧弱な語彙に、出来るだけ能力を発揮さしてゐる。言葉を余り知つてゐると、言葉が過剰で内容が出て来ない。言葉が少いと、内容をば工夫して出すから本当に出て来る、さう言ふ事がございます。かう言ふ平安朝に始つた昔の人の悪い考へを、今の人が真似てゐる。今の人の悪いのは、平安朝の書き物に出て来れば、その言葉は平安朝のものだと定める。或は奈良朝の書き物に出てゐるからとて奈良朝だと定める。が、そんな事はない。つまり、言葉と言ふものは、前の言葉が生きてをれば使ふんですから――或は生きてゐない言葉でも使ふのです。つまり、生滅しながら伝つてゐるのです。だから平安朝にある言葉、平安朝の物語、日記に出てゐる言葉だからと言つて、平安朝で使はれてをつたとは定りません。それと同時に、平安朝以前の言葉で、平安朝では使はれてゐなかつたとも言へません。さう言ふ種類の言葉をば、沢山探し出す事が出来ます。つまり、平安朝の物語、日記類に出てをりまして、而もその用語が平安朝に生きてをつたものか、或は既に死んでしまつてをつたものか、それが疑問になる言葉が沢山あると言ふ事です。それは、私は少くとも強いことが言へると思ひます。と言ふのは、平安朝の物語、日記の言葉の索引をとつた事があります。それは何の為にとつたかと言ふと、民俗学的の材料があるかと言ふ事と、それから、私は又一方に、言語の興味を非常にもつてをりますから、その言語の歴史を調べる意味でゞあります。大体二つの意味からとつたのですけれども――人にとつて貰つたんですけれど――今日それは殆ど、役にたちません。自分で役にたてないでゐるものもありますのですけれど、平安朝の語彙が如何に貧弱であるかと言ふ結論は、出してもいゝと思ひます。非常に貧弱です。あれだけの書物があるから、どんなに語彙が豊だらうと思ふかも知れませんけれど、全然反対です。殊に民俗学に関する材料は非常に少い。少いものを我々は料理しすぎる。ですから、そのうちから出来るだけ生かして来て使ふやうにと、かうしてゐる訣です。
平安朝の言葉にわらはやみ[#「わらはやみ」に傍線]と言ふ言葉があります。瘧のことをわらはやみ[#「わらはやみ」に傍線]と言つたのは疑ひない。はつきり、瘧に違ひないのです。併し、それを何故わらはやみ[#「わらはやみ」に傍線]と言ふのかと、言ふと、大胆な想像を駆つて、この瘧になると髪なんか振乱して苦しむからわらはやみ[#「わらはやみ」に傍線]と言ふのだ、と言ふ説もある。さう言ふ愚説を沢山集めての国語研究も必要なんです。愚説と知りながら集めなければならぬ。今の万葉研究者は愚説を賢説と誤つて研究してゐるのですが、万葉は余り研究せられて、万葉研究は止めたらいゝと思ふ程、どんな山奥でも万葉研究をしてゐる。山奥だつて出来ない訣はないけれども、自分等の職業意識を働し過ぎて、つまらぬ研究は止してしまへばいゝと、虫のいゝ事を考へてゐる位なのですけれど、どうも余り誤り過ぎてゐる。而も昔の人の愚説ばかりを並べてをつて、賢説と同じに扱つてゐる。愚説は、賢説の発生する順序として見るより為方がない。愚説と賢説との区別をしないでやつてゐるその研究態度は、非常に悪い。愚説の陳列を学問と思つてはいけません。その最後に自分の賢説を附添へて置かなければなりません。――我々はわらはやみ[#「わらはやみ」に傍線]などゝ言ふと訣らぬが、言葉は訣つてゐる。その上訣らないでもいゝではないかとも言へますが、まる/\訣らなければそれでいゝのですが、わらは[#「わらは」に傍線]と言ふ言葉は訣つてゐる。又やみ[#「やみ」に傍線]と言ふ言葉も訣つてゐる。だからまう一つ訣らないと気持が悪い。私は知りませんけれども、事実ある地方では瘧の時坊主が出て来て――子供だつたのでせう――子供がそつと来て、蒲団の上に乗るんです。さうするとふるひだす。行つてしまふとふるはなくなる。出て来ると又ふるふ。さう言ふ事を申します。だからわらはやみ[#「わらはやみ」に傍線]と言ふ事は訣りますね。多分、ではない、さうに違ひないと言ふ事が出来ます。

 

     三 文学者の階級と言語伝承と

 

民間伝承の種類を私が申す必要はないんですけれども、私の話が国語に関する事ですから、いきほひ、その他との限界をつけなければなりません。つまり、言語を以てする伝承、所謂言語伝承。それから物を以てする伝承、物体伝承とでも名前をつけて置いてよろしいでせう。それから行動を以つてする伝承、行動伝承。それから心を以つてする伝承、心意伝承。これは柳田先生が、心意現象と言ふ事を言ひ出されまして、他ではさう問題になつてゐないやうですけれども、我々は新しく人間の心意の上の、心の上に伝へられて行くものに就いて、観察しなければならぬ。形として掴む事も出来なければ、物体にも記録にもなつてゐない、言葉にもなつてゐないやうな心意の現象があると、さう言ふ事を言はれてをりますが、さう言ふものゝ伝承、仮に、心意伝承と名前を付けて置きます。この分け方にも、だん/\議論が出て来ますし、まう少し小さい分類は、私もしてをりますけれども、この場合はこれだけに止めてよからうと思ひます。此処では言葉を以つてする伝承、言語伝承と言ふものに就いて申上げて行きます。
私共が口の上で扱つてゐるものが、総べて国語だと、かう見ていゝと思ひますが、まう少し、生命をもつて、と言ふ風に、それに附け加へて置いた方がいゝかも知れません。だから我々が口で言つてをつても、教場なんかで喋つてゐるやうな外国語と言ふものは、死んでゐるんですから、国語ではないのです。同時に、外国人と話をするとき使つてゐる言葉は、我々の本当の生活ではないのですから、つまり一種の変態の生活なのですから、まう少し上手に言つた方がいゝかも知れませんけれども、兎も角も、一時の現象なのですから、生きた生活とは言へません。その他に、我々が普通の日本語を以て意志を発表してゐる時、その間にはさんでくるものは、どんなものでも皆国語の訣です。譬へば、日本語の話の中に、英語や独逸語をまぜてゐるとしましても、その外国語は、英国人の英語、独逸人の独逸語そのまゝの意味をもつて、我々は使つてゐるのではない。我々が本当にそのまゝ、正確な意味をもつて使つてゐるなら、これは学術語でせう、或は専門語でせう。我々の日常の言葉ではありません。我々が日常の言葉として使つてゐる場合、我々はその言葉を我々のうちに生かしてゐる。出来るだけ我々は聯想を働し、我々の心持ちでその言葉の内容を分解し、理会して使つてゐるのです。形は如何に外国語であつても、純然たる日本語になつてゐるもの、と私は見てをります。
我々がこの外国語を取入れる時、一番困る事は、我々が外国語を使つても、外国語そのまゝには決して使つてゐないと言ふ事です。だから発音も変つてゐるし、もつと内的な事実が違つて来るのですから、今申上げたやうに、自分の生活に触れ、自分等の聯想を逞しくし、形は外国語でも、日本的な言葉として内側から向いて来る時は、それを取入れる事は悪い事だとは思ひません。けれども、一番いけない事は、造語能力が減退する事です。非常に造語能力が減退して参ります。だから明治以後の日本人と言ふものは、造語の苦労と言ふ事は殆どしてゐない。或時期は仏教の言葉で苦労して、言葉を作つて来ました。それから、後に仏教の言葉で間に合はぬやうになつて来ると言ふと、辞書から漢字を引き出して、二つ宛くつ附けて行つた。漢語は煉瓦と同じ事ですから、積んで行けば一つのものが出来る。一語々々に意味があるのですから組合せて行けばどんな事でも出来ます。支那人は自分の言葉だから、これは困ると思ひますが、日本人はよその言葉だから鈍感で、どん/\作つて、言葉で導いて行くから、無闇に言葉が出来て来る。それから他に、学術語と言ふものは、別の飜訳語を使ふよりも、原語を使つた方がいゝと言ふ事で原語を使ふのですから、どん/\言語は殖えて来ます。それが次第に、原語でなくてもいゝ事にまで原語を使ふやうになり、しまひには何処の言葉か訣らない、いぎりす[#「いぎりす」に傍線]の言葉か、どいつ[#「どいつ」に傍線]の言葉か、ふらんす[#「ふらんす」に傍線]の言葉か訣らない。それは西洋でもさうでせうけれども、そのまゝになつてしまつてゐる。兎に角、再び繰返しますが、我々が聯想の範囲をば外国の言葉の上で出来るだけ深めてゐると言ふ事は悪いとは思ひませんけれども、造語能力が減退すると言ふ事は、もつといけない事なのです。
これを逆にもつと申しますと、田舎の、ものを知らぬ人々は、――尤も、まるきりものを知らぬと言ふ人は、今では殆ど、なくなつたけれども、兎に角、自分が有識階級でないと言ふ事を知つてゐる連衆《レンジユウ》と言ふものは、気取つた物言ひと言ふ事をしません。だから、方言を見ますと言ふと、一寸漢語がゝつたもの、外国語がゝつた言葉は、何処か必ず、曲つてゐる。知識が浅いから、自然曲つて来るものが沢山ありますが、自分は知識階級ではない、無識階級だと言ふ事を標榜してゐる言葉が沢山あります。我々がはじめ痛感したのは、旅順港が落ちるか落ちないかゞ問題になつてゐた時分、その時分は私共の中学時代ですが、旅順港と言ふ事を言へる人々も、わざ/\じよじゆん[#「じよじゆん」に傍線]港などゝ言つてをりました。それを言へない連衆なんかは旅順の上にまう一つくつ附けて、どでん[#「どでん」に傍線]港なんて言うてゐました。話をしてるから訣りますけれども、話がなかつたならば訣らない。これは旅順港と言ふ言葉が言へないのではない、言へない事はないのですけれど、改つた言ひ方をするのを恥ぢて、わざ/\言葉の形を枉げて使つてゐるのです。
横浜の港が盛んな時には――神戸あたりもさうですけれども、りんがふらんか[#「りんがふらんか」に傍線]と言つて聞き違へて使つたり、発音を間違へて使つたり、又、文字から来る誤りの言葉を使つたりする事がはやりました。兎に角、聞き違へて西洋人の言つた事を言つてゐるのですが、併し、聞き違へが余り沢山の人の耳を通してくると、かう言ふことはやめられないと言ふ、弱点もあるのですね。つまり、聞き違へが、国語に持ち来たされてくるのです。犬のことをかめ[#「かめ」に傍線]と言つたりしますが、これは誤解に定つてゐる。「カム」「カム」と言うて呼んでゐるのをかめ[#「かめ」に傍線]、かめ[#「かめ」に傍線]と聞いてかめ[#「かめ」に傍線]と言ふ名で洋犬を呼ぶんだと言ふやうになつた。さう言ふやうに思ひ違ひもあるけれども、又りもなあで[#「りもなあで」に傍線]をらむね[#「らむね」に傍線]と言ふ例もあります。りもなあで[#「りもなあで」に傍線]とらむね[#「らむね」に傍線]とでは文字で見るとよつぽど違ひますが、兎に角そんなうちにも、始め西洋人の言ふまゝをば、そのまゝ言ふ事を恥ぢる。威張つてゐる奴だ、生意気な奴だとか、小憎らしいと思はれるのが嫌だと思ふから、枉げて言ふ言葉と言ふものがあります。だから、存外人間と言ふものは、どんな無知識な人でも、言葉に対しては非常に細心の注意を払つてゐる事を、思はなければなりません。だから、国語教育の上に於いて、この言葉は東京で行はれてゐる言葉だから、この言葉は国定教科書に書いてある言葉だからいゝ、とやつてしまふのは考へ物です。もつと/\、さう言ふ苦労をば、何でもない人がやつてゐる事もあるのです。
何にしても、かう言ふ風に無茶苦茶に、無闇に、無反省に外国語を持込んで来る事は、いゝことではない。つまり、それは我々が作文を作る時を考へればいゝでせうね。英作文とか、外国の作文を作る時を考へて見ますと、一遍は必ず、日本文に訳してそれを又外国文に訳してゐる。それでは間にあはないでせう。だから、さう言ふ過程を経た会話なんと言ふものは役に立たない。しゆつ/\と出て来るものでなければなりません。併し、それは悪いけれども、同時に我々はこの外国語に対しては、やはりそれと同じ事をやつてゐる。英作文を作る時、又独作文を作る時に一つの形を拵へて見る。日本の文語を拵へる時のやうなそれと似た過程をば、外国語を使ふ時にも、取入れる時にもしてゐるんです。つまり、意味は訣らないけれども飜訳してゐる。近頃はやつてゐる言葉だつて、その言葉を辞書通りに或は西洋人が使つてゐる通りに使つてゐるのではない。自分の心に、飜訳した内容を持たしてその言葉を使つてゐる。だから、その我々が使つてゐる外国語と言ふものは、新しく日本語にだん/\なつてゐる。だから、外国語と言ふものに対しても、簡単にそいつはいけないと言ふ、単なる国粋的なものゝ言ひ方は出来ないですね。
ところが、この言語伝承のうちで、我々が考へなければならぬ態度が三つあります。つまり、時代的に見て行くか、地理的に見て行くかと言ふこと。まあ普通の考へは、この地理観察と時代観察です。時代観察をすると言ふ事は、言語史的、つまり、国語史的に見て行くと言ふ事です。地理観察と言へば、まあ方言風に見て行くと言ふ事になります。併し、それと同時に、階級を基礎として観て行くと言ふ見方があると存じます。
どうも私共の考へでは、尚幾度も考へ直さなければなりませんが、日本の様な国で階級と言うては、不適当かも知れませんけれども、兎に角、階級に似たものが幾つもあつて、それが各々お互ひに、その位置を認めてゐた。さう言ふ風に、位置を認め合つて居た歴史が古いのですから、先づ、階級的な観察と言ふものをば認めて、之を、この民間伝承に加へていゝと思ひます。言葉の場合もさうです。国語をば階級的に観察して見る。それはやはり歴史的になるんです。どの時代にどの階級が勢力を持つてをつたか、つまり、どの時代は、その時代のどの階級に依つて、舞台が廻されてをつたかと言ふ事です。これは政治ではありません。政治的に言ふと存外微力な階級で、従つてその実際生活の微力な階級が、つまり、言ひ換へますれば、実際生活に何の印象をも止めなかつた、止めずに済んだ階級が、その舞台を廻してゐたやうなことがあります。実際さう言ふ風に舞台を廻して居つた階級と言ふものがあるのですから、さう言ふ階級の伝承した全体の知識と言ふものは、必ず、その時代に大きな働きを与へてゐる。大きな影響を与へてゐる。だから、さう言ふ階級と言ふものを、よく観察して行つたらどうだらうか。かう言ふ風に思つてをります。これは国文学の時には、是非さうしなければならぬのです。只今は国文学の話ではないのですから、少しも必要はないやうなものですけれども、この場合にも、略《ほぼ》同じ形に嵌るのですから、階級の名前だけ挙げて置きます。
国文学の上では、先づ、文学者の階級として女房階級と言ふものを私は置いてゐるのです。女房即ち、宮廷或は貴族に仕へてゐる高級の女官で、さう言ふものが国文学の支配をしてをつた時代です。さう言ふ時代に於いては男が作つても女の姿で作る。土佐日記など御覧になりましても訣りますやうに、男のすなる日記と言ふものを女もしてみむとてするなり、と女に仮装して書いて居る。さう言ふ連衆が、書いてゐる中にだん/\実力を得て来る様になり、表面に出て来て、作者の本当の階級になつて来ます。それ等を隠者階級と言ひました。これが江戸の始め迄続いてゐた文学者の階級です。それから後は、町人の文学者の名が出て来た。元禄前後からの事です。これを戯作《ゲサク》者と呼んでをりますが、これは隠者階級の形をだん/\学んで、さうして、独立して戯作をした。これが明治迄の有様です。かう言ふ風に、非常に少いが、その間に色々な階級が割込んで来る訣です。女房の階級に纏綿して搦みついてゐるのは王族で、それから貴族です。これは主流ではないのですけれど、王族とか貴族とかの文学は皆あるのでして、これが調和して、女房文学になつて来た訣です。で王族、貴族の文学と言ふものも考へる必要があるのです。それから、女房文学が隠者文学に移つて行く過程も、やはりあるのです。寺家《ジゲ》文学、寺の家と書いて寺家の文学と言ふものがございます。それから武家の文学と言ふものがあります。鎌倉、室町時代になりますと、隠者文学に影響を与へた非常に低級な文学があります。――低級な文学と言ふものも見る必要があります。高級な文学ばかり見て居つたんでは為様がない。低級な文学が高級な文学を動かしてゐるのです。低級な文学と提携しなければ高級な文学と言ふものも、やはり生命を保つて行けないのですから。――その低級な文学に武官、武家の文学があつたのです。大体これだけです。日本の文学の系統はごく、簡単です。
ところが古いところでは、文学をば伝承し或は存続させると言ふことは、つまり、言語を伝承し、言語を存続させると言ふ事と同じ事なのです。なんにも意味が変らないのです。だからその点に於いて、話は自然文学的になつて参ると思ひます。譬へば、それ等の階級を、――或は階級以外のものでもですが――言葉だけで申しますと、宮廷方言、貴族方言と言ふ様な言ひ方で、考へていゝ訣です。そしてそれをひつくるめて、女房方言と言ふものがあります。或はその他には、武官の階級であれば武官方言、寺家の階級であれば寺家方言と言ふものが出来て来るでせう。けれども、その中の隠者と言ふものは、方言を持つてゐません。つまり、生活を持たず、社会を持たないものであつて、隠者と言ふ者は、何時でも、色々な社会にくつゝいて行くだけです。貴族の家へも行けば、武家の家へも行く。そしてそれ自身の大きな社会と言ふものを持たないのですから、隠者の方言と言ふものはない。隠者と言ふものが持つてゐたのは、文学語だけです。それで、世捨人が持つてゐるものと、武家の方言と言ふものに就いては、簡単に申されません。武家は日本国中に散在してをつたのですから、その武家をば、一遍に武家方言と言ふやうな風に、ひつくるめて申すことは出来ません。大体、国語をば階級に嵌めて見ましても、さう言ふ風に嵌つて行くのです。併し、尚、国語の伝承せられて行くその過程らしいものが釈ければ私は満足するのですが。

 

     四 諺の発生及びその伝承

 

民間伝承の方で取扱ふ言語伝承と言ふものは、色々あります。色々あるのですけれども、大体三つの区分があると思ひます。一つは宗教的な言葉で、まあ呪言とか呪詞とか言つておいていゝでせう。それから、まう一つは言語遊戯。言葉の遊戯です。それから、まう一つは方言です。併し、この他にまう一つ重要なものがあります。つまり、文学的な口頭伝承です。口の上で伝承せられるもの、それが、口の上ばかりで伝承せられてゐることもあり、筆記せられて、文章になつてゐるものもあります。併し、私は多くの場合、これを言語遊戯として、同じ項目に入れて考へてをります。つまり、呪言と、言語遊戯と――その中へ非文学と名前をつけてゐるものを入れてゐます。文学にして文学に非ざるものと言ふ訣で、非文学と言ふ名前をつけてをります。――それから方言と、大体この三つですが、今これに就いて、詳しく申してゐるのも大変なことですから、極く、断片的な事を申しませう。
一体、我々は遊戯と言ふものをば、非常に昔とは変つて考へる様になつて来てゐます。遊戯と言ふものは、昔、宗教的な儀礼をば練習するところから、起つてゐるのでせう。今は遊戯と言ふと、主に子供を考へますけれども、子供に限りません。この宗教的練習が、つまり、宴会の型になつたりするのでせう。お酒を飲んだり、歌を歌つたりすると言ふことは、やはり一つのお祭りの練習です。その練習と言ふ道をとつて、厳粛であるべきお祭りが、我々の日常生活の少し華《はなやか》な時、即ち、晴れの場合に持ち来される。子供の遊戯になるともつと著しいのです。なんでもかんでも皆、一つの宗教的な儀礼の練習をしてゐるのです。だから、その練習だつて、昔は時が定つてをつたに違ひない。時期と言ふものがあつたのですけれども、面白い遊びは面白いからいつでもやる。そこで、自然に社会的な制裁があつて、特別の場合の他は出来ないことになつた。如何に面白い遊びでも、いつでもやれば、かう言ふ事になるでせう。だから、遊戯と言ふものには、必ず、一種の神秘感を持つてゐたものでせう。我々でも、なんかさう言ふ感じを、この子供の遊びを回想してみると感じる訣です。譬へば、盆の前に昔の女の子供達が「小町踊り」と言ふ事をした。棚機《タナバタ》から盆へかけて、棚機と盆との極く短い間、女の子が列を組んで歩いて、太鼓を叩いて町を練つて歩いたのです。小町踊りと名前こそ言はないけれども、私共も生れた大阪の町でやつて参りました。お盆より前に止めてしまふのですけれども、我々は夏中やつてをりました。それは一つの練習だと言ふ事が訣るのです。それが遊戯になるのです。つまり、遊戯と言ふものは、昔の儀礼の退歩なのですが、或意味からすると、儀礼をば保存してゐるもの、儀礼をば保存しようとしてゐると言ふ形だ、と言ふ観方もある訣です。
只今の場合では言語遊戯ですが、この、国語の遊戯に関するものも、非常に種類がありまして、これもなか/\申し切れませんが、話を簡単に致します為に、少し聯絡が切れ勝ちになりますが、先づ諺と言ふものから申し上げたいと存じます。
諺と言ふものは、只今考へてゐるのとは非常に違ふのです。つまり、諺と言ふものは、一番さしさはりのない言ひ方では、「言ひ慣はし」と言ふ事に過ぎない。ところが我々の一部でも、諺と言へば、なんか社会的訓諭の意味を持つた短い言葉だと言ふ風に言はれてをりますが、日本の諺の歴史を見ると言ふと、そんな事はなくなつてしまふ。諺と言ふ言葉は、これも語源が訣つた方がいゝのですけれど、訣るやうで訣らないのですから、無理に訣らうとしない方がいゝかも知れません。無理に訣らせようとすると言ふと、訣つた語源に引きずられる。が兎も角、諺と言ふ言葉が書いてあるものは、大抵、地方的な意味を持つてゐるのです。この場合、地方的と言ふのは全国的でないと言ふ事です。田舎のもあれば都会のもある。総べてが共通に、一つの諺を持つてゐると言ふことは、考へられないが、それがだん/\一般的になつて来る。今残つてをります古い風土記、奈良朝の時に出来たと称する、風土記を見ますと――「常陸風土記」が一番適切に出てをります――「風俗諺」或は「風俗歌」と言ふのがあります。くにぶり[#「くにぶり」に傍線]の諺くにぶり[#「くにぶり」に傍線]の歌と読むのですが、歌と諺とにちやんと区別をつけてゐるのは、形式に違ひがあるからです。或は形式に違ひがあり、形式に区別があると言ふ以外に、理由が、それ以前にまう一つあるのでせう。この中、歌の方は、国文学の領分に早くから這入つてをりますから、なるべく避けて、諺の方を申して行きます。つまり、「風俗諺」として書いてあるが、それが諺を適切に表してゐる。諺と言ふものは、もと/\地方的なもので、国々、その地方々々の人達の間に、行はれてゐるものと言ふことなのです。だから、宮廷には宮廷の諺があり、貴族でもその家の諺と言ふものがあつたらしく思はれます。古事記や日本紀を見ましても、宮廷の諺が伝つてをります。
わりに、日本の国文学史を専攻する人は歌が好きです。どんな歌の断片でも、まるで、だいやもんど[#「だいやもんど」に傍線]の一粒でも拾ひ集めて来る様に考へて、一所懸命で採集してをりますが、諺はわりに顧みない様です。
つまり、地方で、何か知らぬけれども、残つてゐる言葉があります。その言葉は、失ふことの出来ないと言ふものがあるんですね。まあ普通我々が、その中から抜き出して考へることの出来る意味はこれだけです。つまり、その諺をば覚えてゐると言ふ人、覚えることの出来る人と言ふのは、実は限られた人だけなのです。そしてその諺を覚えてゐると言ふと、その諺の持つてゐる威力が、その人の体に宿るのです。同時に、その言葉の威力、言霊ですね。――言霊なんて言ひますと、神道家みたいになりまして、話が新鮮味を欠きますから、避けてゐるのですけれども、まあ気取つてみたところで同じことですが――その言葉の威力と言ふものは、結局、その土地を自由にすることが出来る威力と同じことです。言霊と言ふものは、国魂と言ふものと同一視してゐますが、もとは違ふでせう。宮中で行はれた事を見ても、国の魂と言ふものがよく訣るのです。天子様の御身体には、大和の国を御自由になさる魂が、這入つてゐるのですが、国々の古い領主にも、さう言ふ国魂と言ふものが這入つてゐるのです。その国魂と言ふものと、言霊と言ふものとを一つにしてゐるが、本当の事は説明がよくつくのです。
その国魂と言ふものは、たゞでは体に這入らない。沖縄あたりに行つてみますと、魂を落しますと、「まぶい籠《ク》み」と言つて、まぶい[#「まぶい」に傍線]を体に籠めると言ふので、色々な石を拾つて来て、ゆた[#「ゆた」に傍線]と言ふ者に石を与へることに依つて、まぶい[#「まぶい」に傍線]が這入ると言うてをります。併し、日本の本島のは、言葉を通して魂が這入つて来る、即ち、言語は仲介者であると考へてゐたのでして、後には、言語そのものも魂を保有してゐると考へる様になつて来たのです。これを強く感じると言霊信仰ですが、兎も角、魂の這入つた言葉と言ふものがあるのです。それを体のなかに入れておくと、その人はその土地に対する力を生じるのです。入れておくと言ふことを昔の人は実際に出来る事だ、つまり、さうして体の中に這入ると思つてゐたのです。心と言ふ言葉は、水心と言へば水の一番深みの処の事で、水心とか地心とか火心とか言ひます。昔の人は、人の体にも深い処があつて、其処に魂が這入る、そして其処に旨く落着くと出て行かない、かう言ふ風な処があると考へてゐたのです。そしてそれが心だと思つてゐたのです。つまり、魂の入れ物が心なのです。心と言ふものは、必ずかう言ふ風な穴みたいなものゝ積りで使つてゐる。具体的に見ると、さう言ふ風に考へられますけれども、本当はそんな訣ではないのですから、まあ覚えてゐることなので、覚えてゐると魂が這入つてゐる訣なんですね。で、その国にある諺と言ふものは、出来るだけその土地の威力を持つてゐる人、つまり、権力者が覚えてをつたものです。
それと同時に、歌がやはりさうなのです。後には歌が非常に勢力をもつて来た為に諺が減退してしまつたのですけれども、歌と言ふものは、起りは違ふが、兎も角、二つ並んで来たのです。形式も違つてゐて、さう規則正しくは行きませんけれども、大体私共の知つてゐる限りでは、諺と言ふものは偶数句になつてをり、歌と言ふものは奇数句になつてゐるものです。偶数句の歌と言ふものは、諺の影響を受けてゐるのです。だから、古い時代の歌と言ふものは諺に近い。古事記、日本紀或は万葉集の古い歌は偶数句に近くて、これは諺とそんなに離れてゐないと言ふことになります。
諺と言ふものは、そんな風な性質を持つてゐる。そして当然の理由から、かう短くなつて行つたが、もとは相当長かつたゞらうと思ひます。けれども、長かつたら諺ではない。つまり、諺と言はれてゐるものは、伝承されてゐた文句が切れて短くなつてしまつてから、諺となつたのです。だから、私はかう言ふ風に考へてゐるのです。本道は諺と言ふものゝもとには、呪詞がありまして、その中の一番の急所が、諺として残つてゐる。歌も同じで、歌と言ふものゝもとには長い叙事詩があつて、それが歌はれてゐる中に、その中の一部分だけが歌はれるやうになつた。その部分は一部分だけ歌つてゐても、全体歌つてゐるのと同じ効果を持つと言ふ程、威力がある部分です。さう言ふものだと思ひます。兎に角諺と言ふものは沢山あります。歌程はございませんけれども、殆ど同じ位沢山あります。唯、歌は早く創作せられましたけれども、諺は創作されることが割合に少かつたのです。そして諺と言ふものゝ意味が変転して行きまして、だん/\、謎みたいになつて来る、言はゞ謎と言ふものに変つて行きました為に、諺は諺として止つてしまつた。併しながら、亡びきらずに僅に勢力をつないで来たのです。それが後に諺の意味が変りまして、社会的な訓諭の意味を持つてゐる文句、と言ふやうな事になつて来てから、沢山に殖えて来たのです。それでもなか/\歌の比ではありません。
で、諺と言ふものは、二つの種類に分ける事が出来ます。一つの諺では、唯、その言葉だけをば伝へてゐる。併し、唯伝へたゞけでは為様がないから、さう言ふものは亡びてしまふ。それで生活に結びついてゐる、生活に関係のあるものだけが残つてゐる。だから、古事記、日本紀なんかの中には、訣の訣らぬ言葉と言ふものが沢山にあります。訣らぬけれども、なにか意味がありさうに考へられてゐる。譬へてみますと、天孫降臨の処に日本紀では二通り――古事記では一通りです――書き方に違つた処があります。天孫が降臨せられる処に、「|立[#二]於浮渚在平処[#一]《ウキニマリタヒラニタヽシテ》」と言ふ文句があるのです。高千穂の峯に来られた時の事で、日本紀では、だいぶ合理化されて書かれてゐる様です。つまり、ふわ/\した処に降りて来られた事にして、書いてゐるらしいのです。一番自分達の感じに近い様に、「浮渚《ウキニマ》り平なる処に立たして」と書いてあります。さう書いた処で訣らないのですが、日本紀にはまう一つ又別の、又古事記にも別の伝へがある。兎も角、これは諺だつたのです。それ等がさう言ふやうに覚えられてをつた。何故か訣らぬけれども、兎に角、昔から覚えてをつた。だから、失ふことの出来ないもので、伝へてをつた。伝へてはをつたけれども訣らないから、だん/\変つて行き、幾重にも伝へが変つて来る。
ところが、そんなものばかりではありません。諺も、必ず、一つの問題を含んでゐると言ふ形のものが出来て来る。常陸風土記で見ると、諺は多くは枕詞です。つまり、その地方で言ひ伝へてゐる重要な言葉と言ふことらしい。ところがその時分の京都の方では、全体にさう考へてをつたか訣らぬけれども、古事記や日本紀を通じて見ますと、まう少し違つて、一種の落し話の前形みたいな形をもつて来てゐる。
ある名高い話ですが、仁賢天皇の時の事、高麗に日鷹の吉士をお遣しになつた後、難波で女が泣いてゐた。この女は日鷹の吉士の妻なのですが、「於母亦兄《オモニモセ》、於吾亦兄《アレニモセ》、弱草吾夫※[#「りっしんべん+可」、279-27]怜《ワカクサアガツマハヤ》」(仁賢紀)と言つて泣いてゐた。この意味はお母さんにも兄さんだし、私にも兄さんだし、さうして私の亭主だ、と言ふ事でせう。それで「母《オモ》にもせ[#「せ」に丸傍点]、我にもせ[#「せ」に丸傍点]、若草我つまはや」と言つて泣いてゐる。それでは訣らないが、それを訣るやうに、「秋葱《アキギ》のいやふたごもりを思ふべし」と説明した、と書いてあります。あきゞ[#「あきゞ」に傍線]と言ふのは今何に当りますか、秋になると出る蒜とか葱とかの類でせうか。あきゞ[#「あきゞ」に傍線]は中を割つて見ると、たま[#「たま」に傍線]が幾つも這入つてゐる。ふたごもり[#「ふたごもり」に傍線]と言ふ事は「ともに」と言ふ事です。非常に幾つも/\這入つてゐる。あれを考へたら訣るではないか、と言ふ事で、「秋葱のいやふたごもりを思ふべし」と言ふ事は、これも一つの伝へ言葉だと思ひます。日本紀に書いてある様な、そこへ行つた賢い人が、そんな事を言つて仮説を与へた訣ではないと思ふのです。この言葉を古い説では、可愛いと思ふと言ふ風に説いてゐる説もありますが、それはよく訣らぬが、兎に角、「於母亦兄、於吾亦兄云々」と言ふ事は、後には西鶴なんかも書いてゐるのですけれども、お母さんにも兄さん、私にも兄さんと言ふのですから、お母さんの兄さんなら、お母さんのお父さんの子供に違ひない。私にも兄さんと言ふ以上には、自分のお父さんの子なのに違ひない。さうして自分の亭主だ、と言ふのですから、この女は自分の兄さんと結婚したと言ふ事は訣る。同時にその亭主でもあるところの自分の兄貴が、母親の兄貴でもあると言ふことにもなるのです。つまり、血族結婚の非常に複雑な事を示してゐるので、お祖父さんが複雑な結婚をしてゐると言ふ事になるのでせう。これを表に作つて見ると、色々な関係が出来て来るのですけれども、お祖父さんに原因があると言ふ事は、一番確な事でせう。つまり、「母にもせ[#「せ」に丸傍点]、我にもせ[#「せ」に丸傍点]、若草我つまはや。」と言ふのは諺なのです。此諺が何時起つたかと言ふ事は訣らぬけれども、兎に角、仁賢天皇の時分だと言ふ事になつてゐる。そんな事の歴史上の事実を求めると言ふ我々の類推力と言ふものは、此処で説明しなくてもいゝ事なのです。その後に続いてゐる今の「秋葱の云々」も、つまり、謎の解答みたいなものなのです。「秋葱のふたごもり」ではないけれども、と言ふやうに申して見たらいゝでせう。ごちや/\になつてゐると言ふ事なのでせう。舅と嫁が結婚すると言ふ事を「芋洗ひ」などゝ言ひますが、さう言ふ事に似た感じなんでせう。つまり、諺の解説がついてゐる謎です。
又土地の諺も沢山あります。大抵の場合、かう言ふ歴史上の事実からかう言ふ諺が起つたのだ、と言ふ風に書いてあります。「かれ、何々とぞ言ふ」と言ふ風に書いてあります。玉作りが役に立たぬ玉を差上げたので、天子様がお怒りになつて、玉作りの土地をお奪ひになつた。それで、「地《トコロ》得ぬ玉作り」と言ふのだと言ふやうになつてゐる。そしてそれに就いての説明として、名高い歴史上の事実をずつと使つて来た。垂仁天皇様の皇后がその兄君のお城にお這入りになつた時、子供だけを城からお出しした。その時、その子供と共に、お母さんの手を引張らうとして、玉の緒を引張つたら、普通なら切れないのに、玉作りが、予め、引張ると切れる様に腐らしておいたので切れてしまつた。それでその城が焼けて――稲を積んで出来てゐたから――皇后様はおかくれになつてしまはれた。それで、天子様がお怒りになつて、玉作りの土地をお取上げになつた、と言ふ物語ですが、この物語とこの事とに、つながりのある部分は昔の人の空想で出来てゐる。かう言ふ形の諺と言ふものは沢山あるのです。それが平安朝に持ち越されて、平安朝の物語、所謂歌物語と言ふものが出来てをります。その場合には歌と諺とは、殆ど同じに扱はれてをりまして、譬へば、竹取物語をみると、諺の話が沢山出て来るのです。その時からかうなんだと説明がしてある。癪に触つたから持つてゐた鉢をぱつと捨てゝしまつた。それで、その時から「面《オモ》なきことをば、はぢを棄つとはいひける」とかう書いてある。今では洒落にもなんにもならぬけれども、つまり、短い物語と言ふものは、さう言ふものが発達してゐる訣です。かう申して来ると、多分に文学的なところになつて来ますが、文学的な処は切り上げたいと思ひます。

 

     五 古典の擬古的傾向

 

先に申しました様に、諺には問と答とではないけれども、それに似た呼応、呼びかけるとそれに応ずると言ふ、条件的の構成がだん/\出来て来まして、それがちやうど、謎とよく似て来てをります。謎と言ふものも、我々には本当に何時頃起つたかと言ふ事は訣らぬ。書物に出て来るのが、まづ平安朝の中頃ですが、平安朝の中頃に起つて、それが卒然と書物に出て来る訣はないでせうから、少くとも平安朝の始め位と推定してよいと存じます。断片的に、似た事柄を並べて行けばいゝと言ふやうな、随筆的な態度から言ひますと、まあ似たものもそれ以前にございます。神武天皇が大和の国に這入られた時に、倒歌諷語と言ふ事が見えてをります。これは対語《ツイゴ》ですが、こんな倒歌諷語と言ふ字面の信用は出来ません。兎に角、逆表現をする。言はうとした事の逆を言ふ。つまり、訣つてゐる同志には訣るけれども、脇の者には訣らない。つまり、合言葉みたいなものでせう。合言葉であつて逆に行くもの、と大体さう考へられます。諷語は暗示する言葉の事です。兎も角も、それを言つてゐる人の意志は表面には出てゐないが、訣る者にはその意味が訣る、と言ふやうな言葉に違ひないのです。大和の国の中に沢山賊がをつて、それが色々な禍をするので、倒歌諷語をもつて御自分達の軍隊を指導して行かれた。すると相手が真似をすれば、相手にはその言葉の通りの効果が現れ、自分が言へば、その言葉の逆の事柄が現れて来ると言ふ、かう言ふ言葉でせう。つまり、相手が言へばその通りの効果が出て、相手は呪はれると言ふ言葉でせう。大抵、昔の言葉には、無条件に言つていゝ言葉と、言つてならない言葉が沢山あつたに違ひない。で、倒歌諷語と言ふものが、果してあつたか、なかつたか訣らぬけれども、神武天皇が大和に入国せられた時、世の中に、かう言ふものがあつたと、後世の人が謎としてゐるのでせう。その謎としてゐる言葉と言ふものが倒歌諷語なんです。兎に角、神武天皇が大和に這入られた事は事実なのですけれども、こまかい事は後世の嘘や想像が、沢山這入つてをりませう。倒歌諷語があつたと言ふ事も、後世にもあつたことで、これが神武天皇の時に始つたと言ふ考へを持つてをつた、とかう思つてよからうと思つてをります。つまり、昔の人の歴史観は、始めて言ひ出したとは、その時起つた事を意味してゐます。今の学者でも、この事件が天皇のこの時にあるので、謎がこの時に起つたと考へる人もありますが、それは悪い。唯、昔の人は、その時始つて以後行はれてゐたと考へた、と見て差支へありません。
つまり、倒歌諷語と言ふのは、さう言ふ合言葉みたいなもので、相手がうつかり真似をすると、相手に呪ひが行くと言ふやうなものでせう。合言葉と言へば言へますが、これに多少謎の匂ひがかゝつてをりますが、謎とは言ひ切れません。だから、昔の人のものゝ言ひ方と言ふものは、自分一人で表現してゐて、自分一人で解釈の表現をするとか、思想を述べるとか言ふ事がございます。さう言ふ事はあり勝ちの事です。あり勝ちの事ですけれども、実際の現象ではない。さう言ふ現象は昔から伝つてをつた型の定つた現象をば、だん/\変形させつゝ、附け足し/\して伝へて来たに過ぎないのです。其一番最初として申しますと、譬へば我々の考へてゐる祝詞のやうなものです。
祝詞のやうなもので非常に古いものが昔ありました。それがだん/\伝へられてゐる中に、目的が分化して来て、色々な祝詞が出来て来ました。それでも、まあ数は少かつた。ところが世の中が進んで来ると言ふと、今度はもつと沢山祝詞を拵へなければならぬ。それで祝詞の新作と言ふ事が行はれます。すると、どう言ふ型の祝詞を拵へるにしても、昔の型のまゝに模倣しなければならぬ。今の神主など見ますと、皆昔の型通り書いてゐる。一寸字を入れ換へたらいゝのでせう。ところが、昔の祝詞を作る精神はまう少し違ふと思ふ。その祝詞のまゝで、どんな場合でも間に合つた。坊さんがお経を知らないと、色々なもので間に合せますね。お経と祝詞とは、どんなものでも間に合つたのでせう。それが数個に分れて行き、更に世の中が進んで来ると、数十個、数百個と言ふ風に分れて来る。併し、その時には、そこが一番必要だ大事だと言ふやうな古い祝詞の中の定つた大事な文句が、必ず、這入つてゐる。これを落してはゐないと言ふ事が、一番忘れられぬ点なんです。
宮廷の書物を見ても、ちやんと定つてをります。天子様の大事な、大行事の時、中行事の時、小行事の時と、それ/″\入れる文句が、定つてをります。又さう言ふ時には、天子様はどう御自分の御資格を御名告りになるか、資格の名告り方が違ふ。小事の時には、天子様は御自分の事をかう仰る、中事の時にはかう、大事の時にはかう、となつてをります。日本の国民に向つて仰る時には、「大倭根子天皇《オホヤマトネコスメラミコト》」とお称へになるのです。これはお名前の様にも思へますが、古事記や日本紀を御覧になると、大和の宮廷の時分、天子様のお名前の上に、日本根子《ヤマトネコ》何々の天皇と言ふ風に出てゐる事に気がつきませう。さう言ふ定つたものがあつて、それを嵌めれば、昔の祝詞と同じ効力を持つて来る。だから、一つの新しい言葉に、昔の祝詞と同じやうな事柄を持たせる為には、古くからある、あゝ言ふ言葉を嵌めて行くと言ふ事が必要だつたのです。だから、換へる部分が少くて、古いまゝ入れて置く処が多かつたのです。それが時代が下る程、新しい部分が殖えて来て、形式的に入れる部分が少くなつてゐるのです。何故そんな事が言へるかと言ふと、極く、新しい事でも訣つてをります。大祓の祝詞と言ふものですが、これも省略するのと大凡三通り程あります。つまり、大祓の祝詞をば、長いまゝで言ふのを、地方で極く、短く節約して言ふので、三通り程あります。さう言ふ風に、どんなに短くしても、急所さへ失はなければいゝのです。
それから、私共若い時は、よく擬古文を作らされたものですが、今の若い人なんか、擬古文なんか作りませんが、今日聞いてをつて下さる方々は、大抵、大なり小なりお作りになつてゐるでせうが、擬古文を作ると、自分の感情は出にくいけれども、言ひ易い。これは昔の人が言つておいてくれてゐるから、その伝へてゐる形によつて、ある点は言ひ易いのです。柳田先生が、三河の菅江真澄の書いた真澄遊覧記につけてお書きになつた序文の中で、どうも左手で背中をさぐつてゐるやうな気がする、と言つてゐられるが、表現が大変不確実だから頼りない処があります。
ところが、日本の文章と言ふものは擬古文の連続なのです。昔から一遍だつて、その時代の言葉で書いてあつたと言ふ事は、我々には考へられない。山田美妙斎、長谷川二葉亭が言文一致を考へ出した。外国語がかうだからと言ふ風に考へ出したが、非常な発明だつたのでせう。その前にもあつた事はあつた。天草の宣教師に、日本語を理解さす為に拵へた平家やいそっぷ[#「いそっぷ」に傍線]などの著述を見ましたが、まあ古い外国語と日本の言葉と触れた最初、と言ふ訣ではないけれども、兎に角、西洋の自由な表現法と日本のとらはれた表現法とが触れた時に生じた、当時の新しい方法なのでせう。それから前になると、国語と漢文と妥協したやうな形が、奈良朝の時分からあつて、それがだん/\時が過ぎて、鎌倉室町あたりになると、上手になつて来る。古事記なんか御覧になりましても、漢字の表現、漢文の表現法と、日本の国語の表現法とを、どこまで調和さして行けるかと言ふ工夫なのでせう。ですから、それを全部、日本語で読んでしまふのも考へものです。さうして、自然どうしても読めない処も出て来るだらうと思ひます。本居宣長先生は、勝れた人ですから、それをどうなりかうなり読んで参りましたが、万葉集なんか、形式の上から見ますと、やはりこれは漢文の形式の上に、どれだけ国語が盛れるかと言ふ事をやつてゐるのです。それから、出来るだけ詩に見えるやうにしようと言ふ工夫と、字を出来るだけ少くして書き表す、見た目はまるで漢詩を見るやうな感じを表さうと言ふやうな事もやつてをります。平安朝で残つてゐるものは、主に女房の書いた日記、物語ですけれども、併し、一方に男の書いた日記、或は日記と同類のものが行はれてをります。そして女の文学の勢力がなくなり、女文字の勢力がなくなつた鎌倉になると、それが表面に出て行はれて、漢文、つまり、日本語と漢語とが揉み合ひをしてゐるやうな文章が行はれ、これと国文との二つが並行して行くのです。そして次第に、四角張つた形式的な表向きなものと、無教育な者や婦女子だけが読む仮名ばかりのものと、かう地位も変つて来た。室町あたりからずつと、仮名ばつかりで書いたものは、婦女童幼の読物と言ふ風になつてしまつたのです。
ところが、擬古文と言ふものは、歴史を辿りますと、只今我々が一番古い日本の文章、散文だと言つてをります祝詞にも見られます。祝詞と言ふものは、間違ひなく奈良朝の宣命と言ふものゝ模倣です。宣命の方が新しいと言ひますけれども、文章をあはせて見ないで、漠然と考へてゐるから、宣命の方が新しいと思へるので、祝詞の方が新しい。古い祝詞もあるでせうけれども、多くは平安朝になつて改作したものばかりが伝つてゐる。平安朝の宮廷で凡て、改作せられた中央政府のものが残つてゐる。ところが、宣命と言ふものは、天子が国語を以て出された詔勅で、これは平安朝になつてもあるけれども、奈良朝に出たものが続日本紀に沢山出てゐるのです。続日本紀に出てゐるものは、少くとも平安朝のものではない。ところが、祝詞は平安朝に出来た弘仁式と言ふもの、それからずつと時代が降つて、延喜時代の延喜式と言ふものになつて、始めて、今残つてゐる全部の祝詞が出来て来る。その中には古いものもあらうけれども、私は神代からあつた祝詞と言ふものはないと思ひます。なにしろ、神様と関係があるものです。だから、皆神代からあつたものが多い、と昔の人は言ひます。これは崇神天皇の時、これは天智天皇の時に出来たものである、と言ふ風に皆話をしてをりますけれども、根本が間違つてゐる。部分的には、非常に古いものも残されてゐるけれども、その部分は、入れなければ祝詞の価値がなくなるから入れてゐるので、一つの文章の中の、古い部分と新しい部分とを数へて、その新しい部分を計算すれば、大体訣るのです。兎も角、私は全体として、祝詞の方が宣命よりも、やはり新しいとしてをります。ところがこの宣命と言ふものも、昔の人は都合のいゝ事を考へまして、祝詞が宣命に似過ぎてゐるからして、実は宣命は古い祝詞の真似をしたんだらう、と言ふやうな事を昔の人は言つてをります。そんな事はないのです。つまり、祝詞と言ふものは古いものは皆亡んでしまつて、新しいもの、平安朝のものだけが残つた。一方、宣命は幸にも、それより古い頃のものが残つたと見ていゝのでせう。それから宣命の文法と言ふ事を言ふ人は、非常に正確な日本の国語学者として我々の尊敬してゐるやうな人でも、宣命に現れて来る文法と言ふ事をやかましく言はれてゐる。非常に正確な様に言はれてゐるが、その一歩前に行つたら無茶苦茶です。日本の散文で一番古い、とかう断定してゐるものゝ、実はこの宣命と言ふものも、その前の宣命の模倣なのです。その前に行けば、どんなものがあつたかと言ふと、まう想像なんですが、つまり、神様の仰つた言葉で、それを今度は宮廷で使つてゐる中に、だん/\天子様の仰ることになつた。つまり、天子様は一年の中のある時期には、神様と同じ資格におなりになるのですから、その場合、御出しになる言葉と言ふものは神様の言葉です。それ以外に御出しにたる言葉も、だん/\神の場合、人の場合と言ふので、書き分けてはゐたのでせうけれども、もとは区別はないのでせう。
大体、この祝詞、或は宣命と言ふものは、もとは書いてなかつたに違ひない。神様の言葉ですから書く訣はない。秘密で口を通じて言つてゐる間に、どん/\拡つて行つて、意味も訣らなくなつたけれども、神様の言葉だから、出来るだけ亡びないやうに保つて行きました。さう言ふ努力をしてゐる間に、次第々々に間違つて行く。訣つてをれば間違ひませんけれども、訣らないから間違つて行く。だから、幾つも訣らない言葉が出来て来る。訣らないけれども使つてゐるのでせう。祝詞は平安朝に出来たと思はれるけれども、その中で、最も古いと思はれる様なものを挙げて見ましても、訣らない言葉を拵へてゐると言ふ事は指摘出来ます。訣つて書いてゐると我々は思ひますから、一所懸命で解釈しますけれども、訣らないで書いてゐる文章と言ふものを、解釈してゐるのであつて、つまらない事の様ですけれども、それが我々の本当の仕事でせう。大体、我々の書いてゐる文章と言ふものは、訣つて書いてゐる事は少いでせう。口から出放題に書いてゐる文章が多い。ですから、口からの拍子に乗つて書いてゐるのですから、一々反省を加へてゐない。だから訣らない事の方が多い。併し、昔の文章にもそれが非常に多い。日本の文章の、散文と言ふものを考へると、そのとゞのつまりは宣命です。併し宣命より前に、それより古い前期祝詞と言ふべきものや、その前期祝詞から分化して来た処の、前期の宣命と言ふものがあるに違ひない。だから、宣命に現れてゐる言葉と言ふものには、前期の祝詞或は宣命の中の言葉が使つてある。つまり、飜訳の出来るものは皆古いものにしてゐます。ですから、さう言ふ言葉を以て、この言葉があつて、而もこれが奈良朝の言葉だから、従つてこの文章は奈良朝に出来たものだ、と言ふやうな事を言ふのは間違ひです。譬へば、平安朝以後にある処のまじ[#「まじ」に傍線]と言ふ言葉、「あるまじ」、「行くまじ」、「すまじ」と言ふまじ[#「まじ」に傍線]は、奈良朝ならばましゞ[#「ましゞ」に傍線]といふ形でせう。万葉集にもあります。宣命にもあります。宣命のは最も、極端に、ましゞき[#「ましゞき」に傍線]と活用させてあります。こんな活用は少しをかしいですけれども、かう言ふものが宣命にかなりあるのです。これは、皆奈良朝に生きてゐた言葉だと言ふ風には、断定出来ない。奈良朝で既に死んだ言葉もございますし、死んだ言葉をば使つてゐるのかも知れません。我々が「大きい」と言ふ言葉を擬古文で書けば、「大きゝもの」と書いてしまひさうです。さう言ふ誤りはあるのです。ですから、ましゞき[#「ましゞき」に傍線]と言ふのは、誤つた近代的の活用かも知れません。「大きゝ」と言ふ様な、現代の文章で誤つて活用さして拵へたものと、同じものかも知れません。さう言ふものは、必ずある様に思ひます。
大伴家持と言ふ人がをります。昔の歌が非常に好きで、昔の歌を集め、万葉集の成立には関係の深い人ですが、この人は不思議な人で、非常に近代的な気持を持つた人なのです。奈良朝の文学ばかりでなしに、支那の文学にまで触れてをりますから、非常にこまかい神経を持つた人です。だから、昔の言葉だけではいけない事があれば、昔の言葉を自分勝手に活用させてゐる。で、家持の言葉には誤用があるのです。譬へば、古い言葉の活用を間違へ、意味を間違へ或は発音を間違へて写してゐると言ふ様な事が出てゐる。そんな事を見ますと、万葉にあるから正しいと言つてゐる人の顔が見たいと思ふ位です。万葉の中でも長歌は殆どまう、擬古文です。殊に、奈良朝の万葉の長歌になりますと、殆ど総て擬古文です。山上憶良などと言ふ人は、非常に長歌を作つて、色々な社会主義みたいな理論を述べた人でありますけれども、併し、形式は擬古文です。家持が後になつて犯す様な過ちを、憶良が先に犯してゐる。憶良と言ふ人は変な人でどうしてもあの、五七、五七、と言ふ調子が出て来ないらしい。支那まで留学して来た人だし、教育が違つた為か、どう言ふ関係か知らぬが、どうも五七、五七と言ふ調子が出て来なかつたらしい。憶良の気風として、さうしたのかも知れませんが、その間に間違ひが出て来てゐるのです。
さうして平安朝になると、平安朝の特徴と申しますか、文章が著しく口語的になつて来ます。口語らしい文脈がまじつて来るのです。それで、割合に見識のある昔の学者でも――今のでもですが――平安朝の文章は口語文だと思つてゐる人があります。そんな事はありません。ちやんと書き分けてある。大体は文語の文章です。そしてその間に会話は会話の言葉になつてゐる。その区別がちやんと書き分けてあります。で、散文の地の文章、口語でない地の文章は、すつかり違ひます。事実見ていつてもはつきり違ふのです。併し、我々はあと先を見ても、あれ程自由に表現した文章がない為に、又、注意しないで読むと同じに見える為に、我々が見ると言ふと、平安朝のは口語だらうと、かう思ふのです。即ち、文法的に同じはたらきをする言葉でも、違つた言葉が使つてあります。文章の型を定めてゐるものが違ふので、助動詞なんかゞ違ふのです。さうして散文でも定つた散文がありますが、それが平安朝になつて定つたものだとは、私は思ひません。やはり以前からつなぎがあつての事に違ひない。つなぎは一時的に切れてをつても、何等かの連続があつたのだらうと想像せられます。それですから、平安朝の文章でも、我々は訣ると思つて解釈してゐるから訣つてゐるのですけれども、本当に見ると、やはり訣りません。訣らぬところがあります。併し、訣らぬ事が我々の考へ方で考へて行くと、やはり訣つて来るのです。
時間も余りありませんので、短く簡単に進めますから、例を引いて申します。一寸散文では適切な例を引く事が出来ませんけれども、あの竹取物語だつて訣らぬ処が沢山ある。誰が見ても本当に見て解釈出来ない処がある。伊勢物語にしても、やはり訣らぬ処があるのです。ところが、訣らぬ処は、必ず、なんか昔の歌の伝へられてゐる処です。昔あつた歌の一部を修正して、伝へてゐる処があるのです。さうすると、歌の形が変つて来る訣ですが、その歌に合ふやうに、その歌の出来た事情を拵へて来る。諺と同じ事です。「おもひあらば、葎の宿に、ねもしなん。ひじきものには、袖をしつゝも」と言ふ歌が、伊勢物語の始めの方にあります。「思ひあらば寝もしなん」はをかしい、「思ひなくは寝もしなん」であらう、と言つてさう直してゐる本もありますけれども、もつての外の事です。「ひじきもの」は敷物の事を言つたので、今で言へばねこぶく[#「ねこぶく」に傍線]と言つたものです。私を思ふ思ひがあつたならば、こんな賤しい葎の宿に来て寝もしませう、と言ふのでせう。寝道具がなければ構はない、妾の袖を敷き物として寝ませうと言ふのでせう。これで理窟は合つてゐるんだが、変てこな歌ですね。昔の人だつて、やはり不合理な事をやつてゐるのですから、百年二百年経つたつて、やはり我々にも不合理に感ぜられる。第一に感ぜられる事は、その「思ひ」と言ふ事で、物忌みに籠つてゐる事を、おもひ[#「おもひ」に傍線]と言ひます。忌月の事をおもひづき[#「おもひづき」に傍線]と言ひます。天子様の諒闇の事をみものおもひ[#「みものおもひ」に傍線]と言ひます。又心の中で思つてゐる女の事をおもひづま[#「おもひづま」に傍線]と言ひます。つまり、おもひ[#「おもひ」に傍線]と言ふのは、昔の日本語では、謹慎生活、禁慾生活に籠つてぢつとしてゐる、と言ふ意味を持つてをつた。それは訣る。更に考へて見ると、ひじきもの[#「ひじきもの」に傍線]と言ふことにも意味があります。ひじき[#「ひじき」に傍線]と言ふことは、日本でははつきりと葬式の言葉です。葬式の御飯にひじきおもの[#「ひじきおもの」に傍線]と言ふものを入れる。鹿尾菜藻《ヒジキモ》を御飯の中に交へたものらしい。炊く時に入れるのか、炊いてからふりかけるのですか、どうも我々には考へられない粗食だつたんですね。だから、青飯と書いて、ひじきおもの[#「ひじきおもの」に傍線]と日本紀に訓註が書いてある。日本紀に出てゐるものは、必しもその時出来た言葉ではありませんから、まあ、どんなに新しく見ても、平安朝の中期以前と言ふ位の処でせう。ひじき[#「ひじき」に傍線]を喰べるだけではなんにも意味がありませんけれども、宮廷に関係のある御葬式の時には、ひじきわけ[#「ひじきわけ」に傍線]の女と言ふものが出て来る。もと伊勢の国から出て来ました。さうして鎮魂の舞踊を行つた。ところが、雄略天皇が御隠れになつた時、なか/\魂が鎮らなかつた。それで慌てゝ、ひじきわけ[#「ひじきわけ」に傍線]を捜したところが、ひじきわけ[#「ひじきわけ」に傍線]が円目《ツブラメ》の王《オホキミ》と言ふ人の妻になつてゐた。その女が自分の氏は死に絶えて、自分一人残つてゐると言ふ事を申し上げたので、その時からこの役が円目の王の方に移つた、と言ふやうに書いてあります。ですから、昔の人はひじき[#「ひじき」に傍線]と言ふことで、かう言ふ様に直に聯想する。それだけの知識がある。つまり、伊勢の国のひじきわけ[#「ひじきわけ」に傍線]の女と言ふ者が出て来て、宮廷の葬式の時の鎮魂を行つたのです。女の権勢と言ふものははかないもので、女に維持せられてゐた方面は、どん/\衰へて来た訣ですね。さうしますとこの「思ひあらば」と言ふ事と、「ひじきものには」と言ふ事は接続してゐます。筋が通つてゐます。唯、その間に「思ひあらば、云々云々、ひじきもの」と言ふ言葉があつたが、だん/\伝へてゐる中に、有意識或は無意識に解釈して行つて、その時分の人の頭に合ふやうな、一種の合理化が行はれて、そこで発達が止つた。さうして、すつかり変形してしまつた歌の起源を説明すると、伊勢物語の様に、恋人同志の間で鹿尾菜を贈るのに添へたのだ、と言ふことになつて来るのです。平安朝の生活と言ふものは、貧弱な生活ですから、鹿尾菜みたいな物を、恋人同志がやりとりしたのですから恐しいですが、だけども、それだけの事実を知つてみると言ふと、この歌はもとは伊勢物語の伝への通りのものではない、と言ふ事が訣る。唯、さう言ふ風に自然に解釈して行くと、解釈が如何にもうまく出来てをります。かう言ふ事はこの歌だけではない。伊勢物語は、殆ど、かう言ふものばかりなのです。全部とは言へないけれども、大和物語もさうです。その他の物語類にも、あちらこちらに散らばつてをります。ですから、文章の解釈と言ふものも、次第々々に行はれて、だん/\合理化せられて行く訣です。ですから、又申上げる話がもとに返りますけれども、祝詞なんかだん/\変つて行くことは不思議のない事です。

 

     六 国語の階級的伝承と地方的伝承と

 

謎の問題が残りましたが、謎の問題に関聯して又色々な話がございますが、それより、せめて国語を伝承する階級として、階級的の事実を挙げて行きたいと思ひます。
女房が伝承したとか、貴族が伝承したとか言ふ事の一箇条にでも、触れたいと思ひますので申上げますが、譬へば、女房の間の伝承の言葉と言ふものを見ようとすれば、物語や日記類を見れば大体訣りますけれども、もつと端的な事実があります。つまり、忌み言葉と言ふもの、隠し言葉、隠語です。言うてはいけない言葉と言ふと、語弊がありますが、かう言ふ風に言へば言つても構はない、と言ふ言葉です。つまり、物忌みの条件に適ふ言葉と言ふことでせう。宮廷や貴族に仕へてゐる女房、女官などゝ言ふ者は、皆もと/\神様に仕へてゐた者なのですから、さう言ふことを忘れて後も、全体の気分として、さうしてゐた気分が残つてゐます。生活全体のかげとして、神様に仕へてゐた時の、習慣が残つてゐるものなのですから、忌み言葉などゝ言ふ因習が、やはり守られてゐる。だから、言うたらいけない言葉があります。譬へば、月経なんかは言ふ事は出来ない。それだから色々に言ひ方がありませう。それが世間に出て来ると言ふと、更に色々に変つて来るけれども、世間の女だつて、やはり神様を持つてをりますから、月経は忌み言葉になつてゐるに違ひない。ですけれども、忌み言葉の中で一番有力に、雅なものが勢力を得てゐる訣です。月経の事を「日の丸」と言ふよりは、もつといゝ言葉はないかと言ふ風に考へるのです。宮中ではてなし[#「てなし」に傍線]と言うて呼んでゐる。月経になると、女の人は手が穢れるので手が使へない。それで、神様に対しては何にもしない。だから、その手を動かさない生活からして、月経の事をてなし[#「てなし」に傍線]と言つてゐる。その他月経なんかに対しては色々言ひ方があるでせう。ところが、もつと極端な処になると、御承知の通り、古くから斎宮の忌み言葉と言ふものがありまして、それにはをかしい様な、へんてこなやうなものが沢山あります。我々は女房階級の生活を見ると、よく訣つて来る。それと共に近世迄もずつと、女房言葉と言ふものを使つてゐる様です。附けなくてもいゝ処にお[#「お」に傍線]をつけたり、又「文字《モジ》」をつけたりする。髪なんかかもじ[#「かもじ」に傍線]と言ひ、寿司なんかすもじ[#「すもじ」に傍線]と言ふ。つまり、全体を言ふと、何だか露骨で下品だと言ふ訣なのですが、或は豆腐のことをおかべ[#「おかべ」に傍線]と言ふやうなやり方もやります。さうして、さう言ふ言葉が出て来ますと、それを上品だ、とかう言ふ風に思ふのです。大体、敬語と言ふものゝ発達には、女の人の敬語意識と言ふものを考へなければなりません。今迄の敬語の研究と言ふものは、女の人の作る敬語と言ふものを考へない。日本語に敬語が多いのは、平安朝になつて非常に乱脈に敬語が殖えて来る。つまり、女が多いから、滅茶苦茶に敬語が殖え、又滅茶苦茶に間違つて来る。敬語を無茶苦茶に使ふ階級と言ふものは、いゝ階級だと思うてをりますからして、無闇とはいから[#「はいから」に傍線]な言葉を使ひ、多少でも、資産のあるやうなことを衒つてゐる人達は、幾らでも、なんか変な言葉を発明してをります。「ござあます」なんてことを言ひます。さうなりますと、以前の吉原の女郎みたいな言葉を使ひます。さう言ふ言葉をしきりに作つて行くのです。
尚、この貴族の言葉と武家の言葉だけでも申さなければなりませんのですけれども、この辺で切り上げさして戴きまして簡単に結末をつけたいと思ひます。
鎌倉・室町の武家時代になりますと、武家は国々の言語を矯め整へなければなりません。自分の生活を上品にしなければなりません。事物の観方を上品にしなければなりません。だから文学は中央の文学をとつて来ます。歌は今考へればわけなく作れたやうに思ひますけれど、昔の人は無闇と難しい様に考へた。で、歌は作れぬけれど連歌を作る。その上で歌を作ると言ふ風にやつてゐたのでせう。それから文章と言ひましても、普通文章と言へば、男と女との交換する文章、艶書ですが、艶書と言うても向ふの娘は貴族的な娘だ、向ふの娘は都の風情を知つてゐると言ふやうに、一々文章を書くのでせう。その為に非常に沢山の隠語を包含してゐる、大和言葉と言ふものが出て来ます。それは日常生活の上に、もつと都の言葉と言ふものを取り入れなければならぬ、と言ふ必要からだつたのでせう。中世の欧洲の国々でも、ろうま[#「ろうま」に傍線]の方言をば用ゐたがつて、ろうま[#「ろうま」に傍線]方言で書いた物語を好み、遂にろうまんす[#「ろうまんす」に傍線]と言ふのは伝奇小説の名前になつた。つまり、ろうま[#「ろうま」に傍線]方言と言ふものが、地方に行はれるやうになつたのでせう。都の言葉が地方へ皆這入つて来て、その言葉がその地方で形を変へて来て、ろうまんす[#「ろうまんす」に傍線]化するのです。
国々で第一に変つて来るのは発音でせう。そして方言の一番固定的な事実は発音です。発音の次にはあくせんと[#「あくせんと」に傍線]でせう。結局発音の音声的要素が一番方言で動かないものでせう。それだつてどの位の年数、同じ状態を保つか知りません。方言の語彙は動き易いものだと思ひます。柳田先生のお考へも近頃さうなつて来てゐるやうです。明治の初年この方、日本の国文学に対して、博言学などゝ言うた時代から、言語学を専攻する人々は、方言の扱ひに非常に大事をとり、非常に重苦しく考へて、はふつてあつた。そしてなんでも大仕掛けに積み上げてから学問をしようとした。ところが柳田先生がちよこ/\と出て来て、一遍に今までの方言研究をひつくりかへしてしまつたのです。方言はもとから研究しなければならぬ/\と喧しく言はれてゐますけれども、たつた一人、東条操さんと言ふ我々の友人が、長い間国語研究室に籠つてやつてゐられました。そして大仕掛けにしなければこの学問は出来ないと思つてゐた。さう言ふ訣で方言の研究が非常に遅れてゐた。どうしたらいゝか見透しがつかない様な状態だつたのですけれども、近頃殆ど、筋が通つて参りました。この上は方言の大語彙と言ふものが出来ればいゝ、と思はれる位になつたと思ひます。柳田先生の御計画では、大間知さんその他の人々と一緒になつて、農村とか山村とか漁村とかの中で、色々な条件を兼ね備へた村を選んで、人事の出来事を基礎として、言葉を集めて行く、と言ふ様な計画をなすつていらつしやるのですけれども、速くして貰はないと、若しものことがあつたら大変です。非常に緊急を要することゝ思ひます。尤も、我々が心配するより、先生は非常に早いのですから、そんなことを言つてる間に出来るかも知れません。
ところが、この方言に於ける流行と言ふことを、まう少し考へて見なければならぬと思ふが、方言が何処迄その地方の固有の方言かと言ふ事が言へるかと言ふ事ですが、非常に疑はしくなる。今迄の我々の仲間の考へでは、少くとも方言と言ふのだから、その土地の歴史とくつゝいた言葉、その土地と関聯する以前からあつた言葉、さう言ふ言葉が相当にあらうと言ふやうな、さう言ふほのかな予期があつたのです。今になつて考へて見ると、そんな予期は殆ど、覆りさうな状態で、たまに何かの事情で残つてゐるに過ぎない、と言ふ事が立証せられてゐる。この言葉はこの地方に千年前からあつた言葉だ、年数を問はなくとも、この言葉はこの土地の匂ひのある言葉だ、と証拠だてる事が出来るやうな言葉は到底なささうです。だから、流行が非常に烈しかつた事が立証されて来たので、これだけでも柳田先生の方言研究の結論になると思ふのです。
先生は或はその考へ方に多少反対なさるかも知れませんけれども、譬へば、なも[#「なも」に傍線]と言ふ言葉、えも[#「えも」に傍線]又はきゃあも[#「きゃあも」に傍線]と言ふ言葉など、我々は聞いてゐると甚だ、心苦しいやうな心持がしますけれども、併しこの地方にとつては、非常に厳密な事情で、この言葉をやめてもつと上品な言葉を言へと言はれたら、やはり遠慮してしまふでせう。
そしてなも[#「なも」に傍線]、えも[#「えも」に傍線]、きゃあも[#「きゃあも」に傍線]を保護しようと言ふ方が多いと思ふ。方言の強さはそこです。結局それが強まつて国語に対する愛と言ふ事になりますから、なにも国定教科書の、文部省の属官が作つたやうな文章、それに出て来る言葉を我々が使はなければならぬことはない筈です。文部省の文章を作る人はまう少しいゝ者が雇はれたらいゝと思ふ。ですから、何を見ても余りいゝやうな文章はありません。
なも[#「なも」に傍線]と言ふ言葉は既に研究した人があるけれども、我々から言へば、人に呼びかけるのになあ[#「なあ」に傍線]、もし[#「もし」に傍線]とかう言うたのが、なも[#「なも」に傍線]になつたのでせう。
だから地方に依ると、なあもし[#「なあもし」に傍線]がなし[#「なし」に傍線]となつたりのし[#「のし」に傍線]となつたりする、色々な形があります。この系統は日本全国に拡つてをります。そして皆、形が変つてをります。のうし[#「のうし」に傍線]と言ふのがあるかと思ふと、なあも[#「なあも」に傍線]と言ふのがある、なあも[#「なあも」に傍線]があるかと思ふとねえも[#「ねえも」に傍線]がある。偶々離れた処になも[#「なも」に傍線]があつたりしてゐます。のし[#「のし」に傍線]となも[#「なも」に傍線]と比べてみると不思議に思はれますけれども、これは必ず、ある時期に、なあもし[#「なあもし」に傍線]が流行して来たものなのでせう。今よく流行つてゐる、「ねえ、あなた」と言ふのと同じことですが、昔の人は流行語と言ふものに権威を認めてゐる。だから、刺戟がなくなつても、すぐに捨てる様な事はしないで、何百年も守らうとしてゐる。そしてなも[#「なも」に傍線]と言ふやうな言葉を拵へるのでせう。それから類推して、えも[#「えも」に傍線]などゝ言ふ言葉を拵へた上に、きゃあも[#「きゃあも」に傍線]などゝ言ふ言葉を作り、なにかなも[#「なにかなも」に傍線]、なにかいも[#「なにかいも」に傍線]、なにかえも[#「なにかえも」に傍線]と言ふ形になるのでせう。
名古屋のことばかり噂すれば叱られるかも知れませんが、私の生れた大阪の言葉を出して見ますと、さかい[#「さかい」に傍線]と言ふ言葉、よつて[#「よつて」に傍線]と言ふ言葉を使ひますが、に[#「に」に傍線]を抜く言葉は平安朝にも一遍あつたんです。そのまゝ残つてゐる訣ではありませんけれども、平安朝に京都を中心に行はれました事が一時忘れられ、又はやりだして来たんでせう。ところ/″\に[#「に」に傍線]を抜いて短くします。なによつて[#「なによつて」に傍線]、なにやさかい[#「なにやさかい」に傍線]、さかいに[#「さかいに」に傍線]と色々あります。私達はさかい[#「さかい」に傍線]と言ふ言葉だけ使ふとなんだか身分の卑しい気が致します。それで私はさかい[#「さかい」に傍線]を避けて、よつて[#「よつて」に傍線]を使ふ人種です。ですから私はそんなことを言ふ筈はないのですけれども、らぢお[#「らぢお」に傍線]で放送した時にさかい[#「さかい」に傍線]と言つたと言ふ事を言はれましたが、一体、さかい[#「さかい」に傍線]と言ふ言葉は柳田先生も研究せられましたが、未だ十分に達してをりません。私は自分の育つた大阪の言葉ですから、考へなければならぬ義理を感じてゐるのですけれども、これが結論になると思ふ材料を、柳田先生が挙げてをられます。
さかい[#「さかい」に傍線]と言ふ言葉は、先生も仰つた様に、なんぢやさかい[#「なんぢやさかい」に傍線]と言ふ風に、ぢや[#「ぢや」に傍線]とかだ[#「だ」に傍線]とかがさ[#「さ」に傍線]の音に変つたか、或は一寸間を入れて、なに[#「なに」に傍線]と言ふ風において、それにさ[#「さ」に傍線]と言ふ感動詞、と言つてはをかしいが、囃し言葉の様なものを入れた、と言ふ風な形で出来たか、と言ふ様に書かれてをりました。もと/\さかい[#「さかい」に傍線]は大阪が本元のやうに言はれてをりますけれども、先生の故郷、播州で言ふさかい[#「さかい」に傍線]は大阪のよりも古いのであつて、大阪弁のは新しいのです。さかい[#「さかい」に傍線]と言ふ言葉に対してすかい[#「すかい」に傍線]と言ふ言葉を使ふ処が相当にあげられてをります。すかい[#「すかい」に傍線]と唯今のさかい[#「さかい」に傍線]と言ふ言葉はなんださかい[#「なんださかい」に傍線]とか、なんぢやさかい[#「なんぢやさかい」に傍線]とか、と言ふ形になればいゝのですけれども、その他の形が色々にある。さかい[#「さかい」に傍線]と言ふ言葉は狂言にも出てをります。能狂言に出てゐると言ふ事は、室町時代の言葉である事の証拠になりません。起源はもつと古いし、狂言の台本と言ふものは、明治初年までだん/\書き変へられて、固定せずにをつたのですから、どの狂言が古いかと言ふ事も訣らない。狂言に出て来る言葉だから室町時代の言葉だと言ふのは以ての外です。ところが、同じ狂言を見ますと、このす[#「す」に傍線]と言ふ言葉を敬語に使つた言葉があるのです。つまり、東京の色町なんかで言ふやうに、ありんす[#「ありんす」に傍線]とか行きいす[#「行きいす」に傍線]とか言ふ、さう言ふ風なのです。敬語の意味のす[#「す」に傍線]があるのです。ところが、敬語を沢山使つてゐる為に、だん/\敬語意識がなくなつて来る。それで今度は形が変つて来る。「あることです」と言ふ、敬語を含んだ意味のあるぢやす[#「あるぢやす」に傍線]にかい[#「かい」に傍線]が添はる。このかい[#「かい」に傍線]は、さるかい[#「さるかい」に傍線]と言へば、「さうあるんですから」と言ふ様な意味で、これがあるぢやす[#「あるぢやす」に傍線]に添つて、あるぢやすかい[#「あるぢやすかい」に傍線]・あつたすかい[#「あつたすかい」に傍線]と言ふ形が出来て来て、だん/\使つてゐる中に、さかい[#「さかい」に傍線]と言ふ言葉が、独立してしまふ。そして、どの言葉の終止形にでもつけて言ふ事が出来る。だから私はさかい[#「さかい」に傍線]と言ふ言葉は敬語と断定していゝと思ひます。敬語で、敬語の形式を失つたものとかう思つてをります。
実はこの方言の事も訓詁解釈との関係に就いても申さなければなりません。沢山問題もありますし、興味のある事ですが、この教育会の催しだと殊にその方面に触れて行つた方が、目的に叶ふのだと思ふのですけれども、どうも私の話下手がいらぬ事ばかり喋りまして、肝腎の問題を外らしてしまひました。申し訣ない事だと思ひます。兎も角も、国語にも未だ問題が沢山ございまして、世間の学者等が正しいと認めてゐる事も本当に正しくない。或は教育行政の上から言つても――私は行政なんて言ふ事は一つも口に出さぬ男ですけれども――、今のやうなやり方では困ると言ふ事は体験がございます。さう言ふ事に関係のあるあなた方が、なんかの時に意見を発表したり、考へたりして下さるお役に立てば結構だと思ひます。こんなつまらない話で、大間知さん、守随さんの話す時間をとつてしまつた事を、皆さん、お二人に申し訣ない事と思ひます。どうぞこれで――。

 

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